わざわざ見に行く

(10月8日付け「学年だより№25」より①)

 今週、塩釜神社は菊祭りだ。それに合わせて(?)、ついに社務所の屋根の葺き替え工事が終わり、覆いや足場が取り外された。丸2ヶ月ぶりのことである。御文庫と違って、こちらは銅板葺き。古い日本建築に似合わないギラギラである。このギラギラが、どれくらいの時間を経て落ち着いた緑色に変わるのか・・・?その経過を見守るのが、次の楽しみだ。少しワクワクする。
 ところで、「学年だより№22」で私は、完成したばかりの御文庫の檜皮葺の屋根がとても美しい、という話を書いた。その数日後、S先生から、「平居先生が書いていた御文庫ってどこ?行ってみたけどよく分からなかったよ。」と尋ねられた。S先生は私の文章を読んで興味を持ち、わざわざ見に行ったのだ。神社の地図を見ながら教えてあげたところ、S先生は改めて見に行って御文庫にたどり着き、やはりその美に感嘆して帰って来た。めでたし、めでたし。
 私にとって、それは当たり前の反応。塩釜神社なんて、徒歩で20分もあれば往復できる。だが、実際に足を運んだ人がS先生以外にいただろうか?「檜皮葺き」が何か、知らなかった人も多いと思うが、調べてみた人はいるだろうか?
 見ること知ることは全て教養で、今後心豊かに生きていく上での財産になる。学ぶ材料も、学ぶ方法も、どこにでも転がっている。「学ぶ人は何からでも学ぶ。学ばない人は何があっても学ばない。」


(裏面:10月14日付け朝日新聞「文化の扉」欄「バウハウス 造形に革新」を引用。
平居コメント:私は「学年だより」でこれまでに、今年が月面着陸50年、周期表の発明(元素周期の発見)150年といったメモリアルイヤーであることに言及した。その第3弾。今年はバウハウス創設100年である。記事にもあるとおり、創設者のグロピウスは「全ての造形芸術の最終目標は建築である」という強い信念を持っていた。私は、京都や奈良の古建築を見ると、その言葉の正しさに思い至る。グロピウスは本質を見抜く目を持っていた、と思う。)