「本を読む」or「本に読まれる」

(10月8日付け「学年だより№25」より②)

 少し前の話になるが、9月の丸々1ヶ月間をかけて、私は普通科の夏休み課題「読書記録」(=簡単な感想文)約300枚をせっせと読んだ。私は、諸君の感想以上に、本の選択に関心があった。もちろん、千差万別なのだが、基本的に純文学あるいは古典的名著と言われるような作品を読んだ人は少ない。
 さて、本は「読む」ものか?「読まれる」ものか?などと言えば、たいていの人は(大人でも)ちんぷんかんぷん、何言いたいの?ということになるであろう。本は「読むもの」だという以外に考えようなどあるわけがない。しかし、私は常に、本に「読まれている」と感じている。
 例えば、夏目漱石の『明暗』に挑戦したとする。あまりにも難しくて読めない、もしくは面白くない(面白さが分からない)という場合、『明暗』が悪いのか?自分が悪いのか?と言えば、たいていの場合、自分が悪い(実力不足)可能性の方が高いだろう。すると、本の側から見れば、「ああ、こいつは俺を読めないレベルのやつなんだな」ということになる(この「学年だより」でも同じことなのだよ。ふふふ)。つまり、本は読者のレベルを読み取る。本を選ぶというのは、本に選ばれるということと実はイコールだ。
 というわけで、諸君が選んだ本を見ていると、諸君のレベルが分かる。それを、いいとか悪いとか言うのではない。だが、単に今の自分にとって面白い本を読むというだけではなく、少しでもレベルの高い本を読めるようにという背伸びの姿勢(=向上心)は必要だ。
 では、レベルの高い本って何??それは一概には言えないのだが、確実なのは、少しでも古い、評価が確立している作品だ。せめて昭和に書かれ、今でも書店で売られているくらいの本に挑戦したい。今後、本を選ぶ時には、そんなことも意識してみよう。

 

【満喫、芸術の秋=芸術鑑賞会】

 私は10時過ぎに会場入りし、リハーサルから見せてもらった。実は、プロオーケストラのリハーサルを見られるチャンスというのはなかなかない。私は音楽に関し、本番よりも練習の方がはるかに好きだ。演奏者たちがバラバラのことを考え、曖昧模糊としていた音楽が、指揮者の指示に敏感に反応しながら、はっきりとした方向性を持つまとまった音楽に変貌する様は、本当にドラマを見ているようだ。もっとも、一昨日は学校コンサートということで、簡単な確認をしただけだったが、吹奏楽部との共演部分の練習で、そんな「創造」の楽しさをほんの少し感じることが出来た。
 校長挨拶の時にざわざわがひどくて心配したのだが、音が鳴り始めると静かになり、その後の鑑賞態度は、単に静かというのだけではなく、とてもよかった(私は2階にいた。生徒の聴く態度は完璧!)。
 クラシック音楽というものに「堅苦しい」「つまらない」という苦手意識を持っていた諸君は多いだろうが、今回のように聴く機会を強制的に与えられてみると、思っていたほどつまらないものでもない、と感じたのではないか?ベートーベンは特に偉大(来年、生誕250年!)。自分が聴きたいものだけ聴いていると世界は広がらず、本当にいいものに出会うチャンスを逃すことになる。強制力は学校の価値である。
 紅葉しかけた定禅寺通りケヤキ並木も美しく、私はご機嫌であった