拙著についての二つの書評

 拙著『中国で最初の交響曲作曲家・冼星海とその時代』が出てから、もう少しで4ヶ月になる。当初から予想していたことだったが、おそらく売れていない。学術や出版の事情に詳しい人達は、「よくこの本3500円で出たね」と言ってくれるが、世間一般からしてみれば高価で、しかも内容がマニアックだ。営業上の事情から、いかにも音楽関係書籍であるかのような顔をしていながら、内容はやっぱり中国近代史、というのも悩ましい所だ。仙台市内の書店で見てみると、やはり歴史書ではなく、音楽書の棚に並んでいる。音楽関係書籍だと思って買うと、「あれれ、違うぞ」ということになるだろうなぁ・・・。
 その拙著について、今日の河北新報「東北の本棚」欄に書評が出た。過去2作についてはなかなか的確な書評を書いてくれた河北だが、申し訳ないことに、今回は感心しない。例えば・・・。

「彼の自伝には『パリでデュカスら名作曲家に学んだ』などと華やかに書かれ、多くの誇張や捏造があるという。」

 冼星海の書いたものに、おびただしい誇張や捏造があるのは確かなのだが、デュカス(拙著ではデュカと表記している)が星海の才能を評価したことは嘘ではない。デュカスは彼の実力か可能性を評価し、1月という非常に半端な時期に、正規の学生として自分のクラスに入学を認めたのである。これは、星海の生涯において、自分のあこがれる欧米の楽壇の権威から認められた唯一の例であると思われる。誇張や捏造の例として書くなら、デュカスではなくダンディかプロコフィエフだろう。
(優れた才能は、才能を見抜くことにも長けている。シューベルトの才能を認めたベートーヴェン宮沢賢治を見出した草野心平高村光太郎といった例を見るとよく分かる。デュカスほどの人物が何かの間違いで星海を評価してしまった、ということがあるとは思えない。デュカスが評価したことは間違いがないという一点によって、私は星海が凡庸な音楽家であったと言い切ることにためらいを憶える。)

「(救亡音楽家としての)絶頂が著者の聴いた『黄河大合唱』というわけだ。」

 これも少し怪しい一節だ。私が1988年に聴いた「黄河大合唱」は、中央楽団の指揮者・厳良堃を中心とするメンバーによって1970年代に改編されたものであった。それは、1939年に星海が作曲したときの「黄河大合唱」とは大きく異なるものである。
 他者が原曲に自由に手を加える、それが悪いことでも何でもない、そこに中国共産党の文芸観がよく表れている。私が聴いた「黄河大合唱」が、救亡音楽家・冼星海が作曲したものとはまったく違う、そここそが中国を考える上で大切なのである。

「後に冼は中国初の交響曲第1番『民族解放』を作曲するが、やはり欧州では話題にならなかった。」

 これだと、まるで中国では話題になったみたいだ。中国でも、神格化された「人民の音楽家」冼星海の作品として政府が話題にはしたものの、高い評価を得ることにはならなかった。1940年に完成し、星海が客死したソ連から、1946年に中国に届けられた交響曲は、演奏時間を短縮し、演奏上の問題を修正した上で、ようやく1987年に初演されたが、おそらく、その後演奏されたことはない。
 以上の私のコメントは、( )の部分以外、本文についての補足ではない。本文をしっかり読んでいれば分かる(書いてある)ことである。

 加えて数日前、知人から、10月1日付けの『週刊エコノミスト』に、拙著の書評が載っているということを聞いた。出版社でも気付いていないのではないかと思う。
 今日、哀しくも仕事をしに学校に行ったついでに、塩釜市民図書館でその雑誌を見てみた。「歴史書の棚」という半ページの欄に、明治大学教授・加藤徹氏による書評が確かに載っていた。書評と言うよりは、私が描いた冼星海の生涯を要約した感じのものだが、河北新報の書評に比べれば的確な内容である。
 氏は書評を「本書の刊行を機に、彼(冼星海)の日本における知名度が高まることを期待する」と結んでいる。私は、冼星海の生涯をたどることを通して、1920~1945年頃の共産党を中心とする中国史を描きたかったのであって、冼星海という作曲家やその音楽を知って欲しいとか、再評価を求めるというような気持ちはない。とは言え、そこは読者の自由である。いろいろな形で受け止められるのは、著者として嬉しい。