恐怖!「鶴の一声」

 今週は、火曜日から今日までが定期考査であった。授業がないから楽ちん!とはいかない。考査の前後1~2週間は、日本で一番(と言うのはさすがに大げさか?)暇な高校教員である私でさえ、息つく暇もないくらいに忙しいのである。考査の作問と採点が膨大な業務である上に、学期の区切りに回収物(生徒から見ると提出物)があって、それをチェックしたり、その他成績処理にかかわる仕事が、本当にうんざりするほどある。私が現在受け持っているのは、全て1年生で、現代文が4クラス、古典が2クラス、生徒数239名だ。多少計算を単純化すると、何もかもが全て239倍になる。たった200字の作文ですら、239枚に目を通して評価するとなると、紙の1枚1枚がほとんど凶器に見えて来るほどだ。まして、B4の紙に数百の文字が並んでいる答案となると・・・。
 そんな思いをしながら、時間が経つのも忘れて仕事をしていると、さて、今国で問題になっている大学入試共通テストへの記述式導入などというのは、全くの空理空論の世界だな、と思う。採点基準を明確化するなどというのは本当に大変。なにしろ、平仮名の「は」が「も」に変わっただけでも、日本語の文はがらりとその雰囲気、ニュアンスを変える。定期考査の時には、白紙と書いてあるものとにできるだけ差を付けてやろう、書いてあるものについては、できるだけ点数をあげようという配慮が働いてしまうから、なおさら基準が複雑化するのだが、それでは、もっとドライな採点ができる入試なら可能か?と言えば、例年の高校入試採点の紛糾を思い出すにつけても、やはり、「無理」と答えざるを得ない。
 しかも、採点をするのはバイト学生だという!近年、いや、20年以上前から、教育実習に来る大学生を見ていると、信じがたいほどの低学力である。世の中には優秀な大学生も一定数いるだろうが、そんな学生が面白くもない入試の採点に来るとは思えない。バイトに応募するのは、ほぼ間違いなく「おバカ大学生」だろう。
 マークシート方式に問題(短所)があるのは分かる。大学生の質を上げるために、高校での勉強の質を高めさせようと思えば、入試で記述能力を問うことがメッセージになる、というのも間違いではない。しかし、どうも木だけを見て森を見ない議論のようだ。
 つまり、「学生の質を上げる→記述能力が必要→記述式の入試」というのは一見正しいにせよ、記述式入試の採点の可能性を考えれば、それが机上の空論であることは分かるはずだし、なにも全国共通テストを無理矢理記述式にしなくても、大学の個別試験でやればいいだけの話である。部分を見ながら対策を考えると、今のような混乱が起きる。
 ところで、民間英語テストの延期は、是か非かと言われれば「是」なのだが、それでも驚く。ひとつの高校内部でさえ、一度決めたことを変えるのはなかなか難しいのに、全国規模の、何年も前から準備を進めてきたものが、大臣の失言をきっかけに、わずか2~3日で延期となるものなのだな。おそらくは会議らしい会議も開かれていない。形式的には文科相の独断(おそらくは首相の指示)でそれだけのことができるのである。途方もない権限(権力)だ。
 今回の英語の試験の延期は、たまたま多くの人にとって「是」だからよかっただけの話である。そういうことを行い得るということは、逆に、多くの人々にとって「非」のことでも、文科相の独断で行い得るということだからである。実に危うい。
 業者は膨大な費用をかけて準備をしてきたはずだ。延期による損害額は、途方もないものになるだろう。損害賠償請求をすることもなく、会社が黙ってその損失を引き受けるとすれば、今度はまた、絶対に、裏で文科省と何か別の取引があるはずだ、ということになる。いずれにしてもひどい話である。
 実は、今日は、憲政史上最長に突入した安倍政権について思う所を述べておこうと書き始めたのである。枕として考査の採点に触れた結果、話がすっかり変わってしまった。お粗末。
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