鈴木孝夫「ものとことば」の授業(2)

まず、「児ありけり。」(『宇治拾遺物語』「児の空寝」より)。授業で何て訳した?
生徒:「児がいた」。
私:どうして「児」は「児童」の「児」なのに、「子ども」って訳さないの?・・・そう、今の「子ども」とこの文章の中の「児」は意味が違うからだよね。この文章の中での「児」は貴族や武士の子弟で、仏教の教えや礼儀作法を学ぶために寺に預けられていた子どもだ、ということになっています。実は、それが本当かどうかは私は確かめたことないんだけどね。はい、このことは、さっきからやっている②と②’に関係します。
 次、「あり」は「いる」の意味です。古文にも「をり」とか「ゐる」とかあるけど、やっぱり「あり」が一般的だし、「をり」「ゐる」も生きているもの、生きていないものどちらにも使います。だけど今は、「教室に生徒が40人ある」とは言いません。「存在する」ということを表現するのに、現代語では、生きているものには「いる」、生きていないものには「ある」とはっきり使い分けるけど、800年前には分けていなかった、ということだよね。
 じゃあ、「けり」という助動詞の文法的意味は?・・・え、「過去」?まぁ、間違いとは言えないけど不十分な答えだな。そう、「伝聞の過去」だよね。
 「率て来し女もなし」(『伊勢物語』「芥川」より)の「し」は?・・・そう、「直接体験の過去」。
 つまり、昔の人は、過去形を2種類使い分けていたわけだ。今は、「た」しかないよね。伝聞を表すためには、「A君に聞いた話によれば」とか、直接体験を表現するためには、「私自身が~した」とか、いろいろな言葉を付け加えることで、区別をしています。
 「あり」だけ見ると、昔の人はデリカシーがなかったから「あり」一語で済ませ、現代人はデリケートだから、主語が生物か無生物かによって2種類の言葉を使い分けるっていうみたいだけど、過去形を見てみると、逆に昔の人が持っていたデリカシーを、現代人は失ってしまったみたいでしょ?つまり、どちらの方がデリケートか、っていう問題ではなく、区別・分類の仕方が違うんだよ。これが、①と①’に関わる問題だ、って分かる?
 作者は岩波新書の『ことばと文化』っていう本の中で、こんな例を出しています。
水について、日本人は固体を氷、液体を水、その中でも温度が高いのを湯と表現する。
 ところが、イギリス人は固体はiceだけど、水はwaterで湯はhot waterだ。つまり、英語には日本語の「湯」に相当する単語が存在しない。固体か液体かだけで分けています。ちなみにマレー語は固体でも液体でもair一語しかない、って作者は指摘しています。まぁ、熱帯にあるマレーシアにはもともと氷が存在しなかったから、単語が生まれなかったんだと私は思うけど・・・。
 ここからは、私による追加なんだけど、気体の水を日本語では「水蒸気」と言い、英語では「steam」って言います。そもそも、「水蒸気」はもともと日本語とは言えないし、私はほとんど毎日、皆さんに「漢字は言葉だ」って言ってるから分かると思うけど、「水蒸気」は3語みたいなものです。漢字を組み合わせて作った単語なんだね。「蒸気」と考えても2語です。「steam」は明らかに一語です。そう言えば、「水蒸気」と「湯気」は違うものだと思うけど、英語では湯気も「steam」です。つまり「steam」に相当する日本語オリジナルの単語ってあるのかな・・・?
 ちなみに、現代中国語でも固体の水は氷、液体の水は水で、日本語の「湯」に相当する言葉は多分ありません。温度によって文字を付け加えて、「温水」とか「熱水」とか言って区別してます。英語と同じです。「湯」はもちろん中国から輸入された文字だから、中国にもあって、もともとは「お湯」の意味なんだけど、現代中国語の意味は「スープ」であって「お湯」ではありません。どこかのラーメン屋に「白湯スープが美味い!」とかって書いてあるの見たことないかな?「白湯」は日本語では「さゆ」と読んで、何も混じっていないただのお湯のことだけど、中国語では「パイタン」と読んで、白く濁ったスープなんです。あ、こうなると、本当は「白湯スープ」っていう表記は変です。「法隆寺」を「Horyuji temple」って言うみたいなもんだな。
 こんなこと話していると、どんどん面倒になるから止めるけど、これで、言葉によって私たちは分類しているっていうことの意味、言葉がなければ分けられない、っていうことの意味、少しは分かるかな?」

 そして、授業の最後には、以下のような話をした。

「作者は、普通の人が当たり前だと思っている①②について、本当に当たり前なんだろうか?という所から出発して検討を加え、最後には①’②’こそが正しい、①②は間違いだという結論に達しました。今、例で見てくると、なるほど作者の言うことの方が正しいな、と思われてくるでしょ?本当に正しいかどうかは、今後、みなさんがいろいろな例を探しながら考え続けて欲しいんだけど、このように、みんなが何も考えていない、あるいは「当たり前だ」と信じていることに、「本当なの?」と疑問を差し挟み、「本当はこうなんだ」ということを見つけ出すことを「哲学」と言います。だから、言語学は哲学、いや、学問はすべて哲学なんです。」(完)