ひどく気弱でお人好しな日本人

 このブログの記事は、新聞記事に触発されたものが多い。しかし、それは話のきっかけであったり、情報そのものの価値によるのであって、記事に書かれた意見が「う~ん、なるほど。こんな考え方もあるのかぁ」と私をうならせた結果であることは、さほど多くない。
 少し前の話になるが、11月16日朝日新聞「多事奏論」欄、編集委員・稲垣康介氏による「札幌でマラソン 日本の勤勉さ見透かした決定」は、なるほど、こんなことは考えたことがなかったなぁ、と視点において私をうならせた珍しい記事である。
 それによれば、来年のオリンピックで、マラソンの会場が東京から札幌に急遽変更になった背後には、「勤勉で責任感が強い日本人」に対するIOCの信頼があるのだという。準備が遅れ、大会が無事開催できるかが心配だったリオやアテネでは、こんなにわかな計画変更は恐ろしくてできないはずだ、と言うのである。「IOCは日本側なら無理を言っても、大会返上をちらつかせたりしないと見透かしていた。計画が決まれば無理をしてもやり遂げる。それが美徳とされ、ときに同調圧力となる空気が、この国にはある。」とも。
 確かにそうだよなぁ。何かにつけて日本人のことを批判する私でも、いざ、わが身にそのような形で理不尽な仕事が降りかかってきた時に、「知らねえよ。自分でやったら?」と突き放すことは難しい。そして、つい頑張ってしまうような気がする。IOCの考えを、「信頼」と捉えるか、「つけ込んできた」と捉えるかは悩ましいところだ。変更が政治的事情ではなく、選手の健康面への配慮だからなおさらだ。
 なぜ、つい頑張ってしまうのだろう?人のことは知らないが、私の場合、人からほめられたいなどという気持ちは、もともとさほど強くない人間であると思っている。だから、頑張ることが「美徳」だからではない。同調圧力に耐えられない?それは少しあるような気がする。みんなが頑張る中で、自分だけ知らん顔をし、自分だけが浮いて居場所を失うことがないかは、やはり少し不安だ。しかし、何より気になるのは、その仕事を自分がしなければ、困る人が出てくるという意識だ。たとえ、困るのが理不尽な要求をしてくる人だったとしても、である。
 分かってはいることだが、私も結局日本人。そして、日本人というのは、「勤勉で責任感が強い」以前に、ひどく気弱でお人好しなのだな。マラソンの開催地変更をめぐる日本人の反応を考える時、改めてそんなことに思い至り、複雑な気分になる。