「第9」偉大なる成熟とアイデア

 今日は、仙台にベートーヴェンの「第9」を聴きに行っていた。東北文化学園大学が主催、無料のコンサートである。思えば、私はこの1ヶ月に、3度も音楽を聴きに行った(既に書いた先週木曜日のスウェーデン放送合唱団の他、11月10日仙台市交響楽団創立50周年記念演奏会。大井剛史指揮、マーラー「巨人」他)。それ自体、さすがの私でも珍しいことなのだが、それら全て「もらった切符」だというのは更に珍しい。
 実は、今日の演奏会は、新聞で整理券の申し込みについて広告が出た時、その翌日に往復葉書を投函したにもかかわらず、先着順で既に満席だとの返信があった。少し残念に思っていたところ、勤務先にまとまった数の招待券が届き、私もそのおこぼれに与ることになった。敗者復活戦に勝った気分である。
 東北文化学園大学は、東日本大震災のあった2011年から、毎年このイベントを続けている。必ずしも仙台だけでやるわけではないようだ。今年が9回目らしいが、私は3回目。一昨年は、飯盛範親の指揮で、我が人生で最高の「第9」を聴かせてもらった。今年の指揮者は堀内悠希。2011年のブザンソン国際指揮者コンクールの覇者である。私は初めて。ちなみにオーケストラは仙台フィル、独唱は高い方から順に真下祐子、村松稔之、前川健生、黒田祐貴。カウンターテナーというのが珍しい。合唱は佐々木正利ファミリー(東北大&岩手大の混声、宗教音楽、山響アマデウスコア、熊友会、盛岡バッハカンタータフェライン)+主催者である東北文化学園大の混声。
 最初に「エグモント」序曲が演奏された。
 私は、「第9」という曲は好きだが、「第9」の演奏会は少し嫌いだ。最初に「エグモント」か「レオノーレ第3番」か、10分からせいぜい15分の曲が演奏されて、すぐに15分とかの休憩が入る。このチンタラ感が嫌いなのだ。「それならいっそ第9だけにしてくれよ!」と言いたくなる。
 今日はよかった。「エグモント」が終わってすぐに、「第9」が始まったからだ。合唱の入場は第3楽章が終わってから。これも珍しい。第2楽章が終わってから、というのは何度か見たことあるような気がするけど・・・。
 垣内悠希という人は、なかなか大げさな棒の振り方をする。最初はそれが下品な感じで、違和感を感じたが、その棒にきちんとオーケストラが反応しているのを見ているうちに、なんとなく慣れてしまった。ただ、日頃から強めの仙台フィルティンパニが、場所によってはひときわ強烈で、下品かどうかはともかく、大柄で派手な「第9」だな、とは思った。
 それにしても、やはり「第9」は名曲。言うまでもなく、ベートーヴェンは来年生誕250年を迎えるのだが、死んだのは今の私と同じ年齢である。いや、正確には、私が57回目の誕生日を既に迎えたのに対して、ベートーヴェンは57年目に誕生日を迎えずに死んだので、今の私よりも若くして死んだことになる。「第9」の完成・初演は1824年、誕生日前で53歳の時だ。彼の精神的成熟を突きつけられて、私は赤面する。
 アイデアというのはすごいな、と思いながら聴いていた。このブログにも書いたことがあるが、以前どこかで聞いた「アインシュタインモーツァルトとどちらが偉大か?」という問題は、本当に重要な意味を含んでいる。知らない人のために書いておくと、答えはモーツァルトだ。相対性理論は、10年後か20年後か、あるいは100年後か、いずれにしても必ず誰かによって見つけ出されていたはずだ。それに対して、モーツァルトの音楽は、彼の個性なくしては絶対に生み出されなかったはずだからだ。
 芸術は全て同様。ベートーヴェンの音楽は、ベートーヴェンなくしては生まれなかった。また、彼の頭の中の電気信号か化学物質が、ほんの少しでも違う動きをしていたら、「第9」は今のような形では存在しなかった。更によくなった可能性もないわけではないが、今の「第9」を本当に素晴らしいと思える人間にとって、そんな想像は不可能だ。「第9」を埋め尽くすアイデアの数々にただただ驚く。そして、ベートーヴェンの脳内の電気信号や化学物質が、「第9」を今のような形で産ましめるように動いた奇跡を、私は畏れる。
 いい音楽を、いい演奏で聴いた。
 この演奏会では、毎回決まって最後にホルスト「惑星」の「木星」に、篠﨑靖男(指揮者)が歌詞を付けたものがアカペラで歌われる。テーマソングという位置付けのようなのだが、これは蛇足。「第9」でおしまい、でいいよ。