これは圧巻!!

 何しろ、人の予定を合わせるのは難しい。「ラボ」だって、主催者2人と講師、計3人の都合さえ合えばよいので、なんとかやっているだけの話である。これが、主催者が5人いて、講師と合わせて6人の都合の合う日、などと言っていては、2ヶ月に1度の開催なんて間違いなく不可能だ。
 仕方がないので、高校生向け講座は「ラボ」の日程に合わせて開催することにし、都合の付く人が来る、という形にした。大木氏にも会場校にも、参加者(見込み)は「100名」と伝えた。
 公私の高校、一部の中学、そして高専と、チラシや案内は40校ほどに送った。石巻市内と、仙石線沿線が中心である。私自身が多忙であるため、ごく一部を除き、電話かけや訪問は割愛した。それにしても、反応は思わしくなかった。土曜日に授業をやっている学校も多く、その日、仙台で高校生の科学関係のイベントがあったりして、各校からは生徒の参加について悲観的な連絡ばかりが入った。話を聞いていると、とにかく高校生も忙しい。だが、本当のところは、多忙が原因ではなく、積極性もしくは知的好奇心に問題があるように思えた。
 結局、参加したのは生徒16名(高14+中2)と、大人10名だった。会場を急遽、部屋としては小さいがスクリーンが大きい視聴覚室に移した。これはよかった。ゆったりとはしているが閑散という感じでもない。映像には迫力がある。そして何よりも、重要だったのは、参加者の質である。周りの友達がぞろぞろと来るわけでもない中、あえて行ってみようと思う人には、それなりの姿勢と能力とがある、ということである。来た人は得をした。来なかった人は損をした。残念ながら「100人」は集まらなかったけれど、それでいい。
 大木氏の話はさすがと感じさせるものだったが、4月の進藤氏の話と比べて、圧倒的に素晴らしいというものではなかった。これは、大木氏が悪いのではなく、進藤氏が立派なのである。同時に、このことは、KUROSHIOの体験が、いかに彼ら自身の血肉になっているか、ということを物語るだろう。
 私がさほど興奮しなかったのは、既にKUROSHIOの話を聞いたことがあったからかも知れない。会場にいた人の多くは新鮮な知的興奮を感じたようだった。彼らからは質問が相次ぎ、閉会後に大木氏に質問を続ける高校生さえいた。種は確かに播かれた、のである。
 さて、夜の「ラボ」である。今回は、少しチラシの準備が遅れたところ、なんと1ヶ月前、チラシができる前に満席になってしまった。次はこんな人が来ますよと、ごく簡単に予告しただけなのに・・・。
 「ラボ」でのお話「未知のフィールドをロボットで探る」は圧巻。私的な印象によれば、KUROSHIOどころではなく、「ラボ」史に残る名演である。
 ごくごく簡単に言ってしまうならば、大木氏は、小学生時代から現在までの、自分とロボットとの関わりを述べた。それは、まとめとして「人間はそう変わるものではない」「好奇心の重心は揺れ動く」という2点を指摘したとおり、ロボットに対する興味を持ち続けるという点で一貫していながら、時期によって、どのようなロボットを作るか、ロボットを活用するフィールドがどのような場所か、などという点では、本人の意思と偶然とによって変化を続けてきた、ということである。
 何しろ、氏はまだ33歳なので、どんなに長くても四半世紀の自分史を述べたに過ぎない。それでも、人を引きつけたのは、それぞれの時期に取り組んだロボットの性質や機能、自分自身の課題というか問題意識とを、詳しく語るところと、さらりと済ませるところとのメリハリを実に上手くつけて語ったことによる。しかも、単にロボットとの関わりだけではなく、大学への「飛び入学」をはじめとする人生上のイベントの話もうまく織り交ぜていく。音楽を演奏する時に、緊張と弛緩、急と緩の組み合わせを適切にするのとよく似ていた。
 ユーモアがないわけではないけれど、それは重要な要素ではない。スライドはよくできていた。これは見事だと思った。だが、内容のないところで、いかに話術が巧みであっても、スライドがよくできていても、人を引きつけることなどできないのである。
 ご本人から聞いたところによれば、KUROSHIOの取り組みについては、毎月2回くらいのペースで講演依頼があるが、それ以外の内容で講演する機会というのはなかったとのことである。今回、私たちが無理なお願いをしたことで、大木氏は新しいストーリーの開発に成功したことになる。そのことは、氏の講演活動の可能性が開けた、ということでもある。
 実際、私たちは、また「未知のフィールドをロボットで探る」をぜひ高校生に聞かせたい、いや、全国の少しでも多くの若者に聞かせたい、という気になってしまった。しかし、優秀な人がそんなことにエネルギーを吸い取られて、自分の研究やその他の仕事で成果を上げられなくなるのもよくない。なかなかに悩ましいことである。