この親にしてこの子、だろうか?

 元農水省事務次官チェコ大使をも歴任した熊沢某氏が息子を殺したことについての判決が、今週の月曜日に出た。この事件と裁判の経過について、私は、他人事ではないと、かなりの緊張感を持って気にしていた。そういう人は多かったのではないか?
 法廷で明らかになった家庭内事情については、正に想像を絶するとしか言いようがない。更に、さほど怪しくもない情報によれば、娘さんは自殺し、奥さんは鬱病だという。地獄のような家庭である。
 なぜそんなことになってしまったのか?私にはうかがい知れない。我が家の子どもたちは、今のところ、本当に健全に成長していると感じるのであるが、それが何年後かの状態を保証するわけではない。ある日突然、非社会的で凶暴な魔物に豹変する可能性もないとは言えない。少なくとも私には、「我が家は大丈夫」と胸を張る自信はない。人間のそんな不安定性、不確実性に、私はおびえる。そして、自分の子どもが熊沢氏の子息と同じ状態になった時、私に何ができるか・・・そんなことを想像しては息苦しくなってきた。
 別に、定年目前で平教員の自分について言い訳・正当化をするわけではないが、あまりにもまともな人は偉くなれない。偉くなる人には、欲深さ、図々しさ、冷酷さ、そして何よりも、自分より強いものに対する卑屈さ、といったものが少なからずあるように見える。もちろん、例外はいくらでもいるだろうし、そのようなマイナス要素だけで偉くなれたりはせず、事務的能力を始め、偉くなるための何かしらプラス要素も持っている必要がある。
 今回事件を起こした熊沢某という人が、人格的にどんな人だったのかは知らない。だが、偉くなれた人とは言え、法廷での話を聞いている限り、十二分に誠実で良識的な人に見える。では、なぜこれほどまでに家庭の中がメチャクチャになったのだろう。
 私も高校教員である。今までに、無数のと言ってよいほどの親子関係、家庭事情を見てきた。その結果言えることは、親の人格や思想と、子どもの成長との間にどれくらいの関係があるのかはよく分からない、ということである。どう見ても異常な生徒がいたとして、いったいこの生徒の親はどんな人なんだろう?と思って、実際に会ってみると、確かに「この親にしてこの子あり」だなと思う場合もあるが、「えっ?どうしてこの人の子が?」と思う場合もある。どちらの方が多いか?それすら、容易には言えない。「親の顔が見たい」などというのは、なんとも軽薄で無責任な言葉に思える。人間の成長には、親の影響以外に多くの要素があるだけでなく、それらがどんなタイミングで作用するかによっても、引き起こされる結果には大きな違いが出てくるのだろう。ほとんど奇跡のような偶然の産物なのである。
 殺人罪に執行猶予が付くことってあり得るんだっけ?可能なら、そうしてあげればいいのに・・・。調べてみようと思いながらそのままにしていたところ、懲役6年、もちろん(←執行猶予がつけられるのは確か懲役3年までだから)執行猶予なしという判決が出てしまった。
 判決の理由は、同情すべき点は多々あるにせよ、警察その他の機関に相談することはできたはずなのに、それをしなかったという点で短絡的犯行だ、ということであった。この点については、そうかも知れない。自ら息子を殺すという異常な手段を取る前に、できることはまだあった。しかし、それは岡目八目の意見だとも思う。息子が狂乱状態にあって、自らも追い詰められていた時に、呑気にコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる人間と同じ感覚を求めてはならない。やっぱり気の毒だと思っていたところ、昨日保釈が認められたという。
 収監の予定があるのかどうか知らない。人の噂も75日。どうせ、すぐにみんな忘れるんだし、再犯の可能性はゼロだろうし、年齢からして6年間の懲役に耐え得るかどうかも怪しいし、奥さんが本当に鬱病だとしたら、誰かが近くにいて見守ってあげる必要があるだろうし・・・、このままうやむやにしてしまえばよいのだな。