少子化の中で哲学

 いつぞや書いたことなのだが、私が教員として何をライフワークにしているかといえば、それは生徒に「哲学」を教えるということである。自分の担当教科が何か、ということはさほど問題にはならない。
 では、「哲学」とは何かと言えば、「それって本当なの?」と常に疑いながら本当の「本当」を探し求める知的作業だ、と思っている。相対ではなく絶対。現在ではなく普遍。利益ではなく真理。・・・誰か特定の個人が言っていることについても、世の中全体でなんとなく当然だ、と思われていることについてもである。個人の言動に正邪があるのは当然のことで、誰しも他人の言動を鵜呑みにしたりしないから、「哲学」が価値を発揮するのは、後者、つまり世の中の価値観に対してである。
 温暖化や少子化といった大規模な社会問題は、「哲学」とは何か、どのような意味を持つかを知るための格好の材料である。
 今月24日、厚労省が今年の出生数を公表した。86万4千人。国の推計を上回る速さで減少が進み、統計を取り始めて120年間で、初めて90万人を下回った瞬間に86万人台まで落ち込んだことを、様々なメディア・識者が問題視している。死亡数から出生数を引いた自然減は51万2千人で、これまた初の50万人超えだそうである。鳥取県一つが丸々なくなると聞けば、確かに深刻だ。だが、それは「本当に困ったことなの?」。
 私が少子化について考えていることは、過去の記事(→こちら。そこにリンクが張ってある参考記事も参照)をご覧いただきたい。考え方は変わっていない。人がいくら少子化を危機と捉えようが、それはあくまでも経済成長路線で考えるからであって、持続可能な社会を作るためには、むしろ今の人口こそが過剰だという立場だ。「少子化で困った、困った」の大合唱が聞こえてくるからと言って、それを無批判に受け入れてはいけない。
 「経済ってほんとうに成長し続けるものなの?」「そもそも、経済成長って何?」「持続可能ってどういう状態のこと?」などなどの疑問を差し挟めば、どう考えても、人口増加こそが困った問題であることに気付くはずである。世界レベルで見れば「人口爆発」が起こっているということの問題を考えてみれば、なおのこと明らかだ。
 もちろん、困らないと言えば嘘である。しかし、それはあくまでも経済成長路線に逆行すると同時に、年齢ごとの人口構成比率が極端にゆがむから「困る」のである。しかし、何事も変化に痛みは付きものである。しかも、起こっている変化は、増やす(増える)ことこそがいい、という人間の本能に反する変化なのだから、なおさらだ。
 年に50万人ずつ減ったとしても、私が目指すべきだと考えている3000万人に到達するには、実に180年を要するのである。おそらく、今くらい急激な人口減少が起きていても、このペースだと生存可能性の確保に追いつかない。百歩譲って、目標を5000万人にしたとしても、140年だ。なんとかして人口を増やそうなんて論外。
 石油の消費、温暖化の進行、食糧危機・・・石油がなければ今の人口は維持できず、石油を燃やせば生きていくための環境を維持できない。この恐るべき二律背反の中で、人間はどうするのか?全ての問題を解決させる根本のところに「哲学」がある。「哲学」なしで現状を見つめ、感覚的、相対的な思考をしていると、20年後、30年後に取り返しのつかない事態に陥る。
(→参考記事:ちょっとした哲学の話