日本のネパール・祖谷渓・・・四国旅行(3)

 四国に行くぞ、と決めた時、子どもたちに徹底的な予習と、自力での計画を命じた。そのために、時刻表の使い方を教え、地図と1冊のガイドブックを買ってやることにした。
 ところが、書店でガイドブックを探すと、様々な場所についての解説が載っているだけの実用的なガイドブックというものがない。『るるぶ』や『まっぷる』のように派手な写真と広告だらけのものばかりである。おそらく、そこで紹介されている飲食店や土産物の類いは、それらの店や会社がお金を払って載せてもらっているものであろう。ガイドブックと言うよりはカタログである。見る価値のあるものがどこで、その場所の歴史的背景や科学的な価値が何で、そこを見るためにはおおよそどれくらいの時間を確保しておけばいいのか、私が必要とする情報とはそういうものである。書店でらちがあかなかったため、ネットでもずいぶん探したが、世の中にそのようなガイドブックは存在しないようである。日本人の旅行が、絵葉書に印刷されている情景を確かめ、写真に撮るだけだというのは、よく言われることのように思われるが、ガイドブックの性質はそのような旅行の貧しさを裏付けているように思われる。なんだか寂しい。
 結局私は、地図として『スーパーマップル 四国道路地図』、ガイドブックとして、それでも無いよりはマシと諦め、仕方なく『まっぷる四国』を買って子どもに与えた。その上で、「ガイドブックの解説は参考にすべきだが、店や物の紹介は一切信じてはならない。」と釘を刺した。
 幸い、子供たちは今までに読んだ歴史関係の書物から目的地を見つけ、それなりのプランを作った。私が「サンライズ瀬戸」で行くぞ、と言ったためか、当初私に示した案では、「東京→琴平→松山→高知→祖谷→高松」とおおよそ左回りだったので、この案では多度津−琴平を3回通ることになるからと言って、「琴平→祖谷→高知〜」という右回りか、「東京→松山〜琴平→高松」という左回りにすべきだ、と言ったくらいである。最終的に「東京→琴平〜」の右回りにしたのは、昨日書いた「サンライズ瀬戸」の運行時刻との関係である。
 初回に書いたとおり、子どもたち(中2と小4)の希望は、1にかずら橋、2に大三島、3に松山か高知であった。私はそれを初めて聴いた時、少し難色を示した。かずら橋(祖谷渓=いやだに)は交通甚だ不便なのである。いくら四国とは言えども、冬は雪が積もるのか、あるいは単に観光客が減るからか、元々少ないバスの便が、12月に入ると更に数を減らし、金刀比羅宮を訪ねた後で乗れて、かつ明るいうちにかずら橋に着くバスは2本しかない。
 せっかく金刀比羅宮に行くからには、最も奥にある奥社まで行きたい。芝居小屋(旧金比羅大芝居)も見に行きたい。うどんも食べたい。後の予定を気にしながら、見るものも見ずにせかせかと歩くのは嫌だ。所要時間は今ひとつ読めない。12:06の特急に乗れればバスの接続がよく、かずら橋に1時間余り滞在して15時半過ぎには大歩危(おおぼけ)に着ける。だが、13:03の特急だと接続するバスがなく、14:01の特急だとバスはあるが、かずら橋に15時半に着き、2時間以上の滞在で、大歩危が18時になる。冬至の夕暮れ、かずら橋で既に真っ暗になっているはずだ。
 「お前らはまだチャンスがいくらでもあるんだから、そのうち自分で行けよ」と言いたい気持ちも強かったが、せっかく彼らなりに調べて、許される時間の範囲で行けることも確認したわけだし、仕方がないから彼らの意思を尊重し、最終的には、阿波池田でレンタカーを見付け、それで訪ねることにした。
 半ば「渋々」訪ねた祖谷渓だったが、やはり行ってみないと分からないものである。今回の旅行で私にとって最も印象的だったのはここであった。
 山が急峻であること、日本国内で祖谷渓に匹敵する場所を私は知らない。特に、「祖谷街道」と呼ばれる県道32号線は圧巻だった。道は切り立ったV字谷の側壁を通っている。斜面の傾斜は60度を超えようかと思われる場所が少なくない。なぜこんな所に道を付けることができたのか不思議に思うほどだ。車のすれ違いができない箇所も多い。車の前を猿が3回も横切っていった。この道路がバス路線になっているというのも信じがたい。
 県道140号線との分岐点の集落など、その急斜面にへばりつくように家が建っている。集落内の標高差が200m、いや300mを超えるのではないだろうか?家の前まで車が入れない家も多いように見える。雨でも降れば、いや、雨が降らなくても、斜面は今にも崩落しそうだ。
(『まっぷる四国』には「落合」という集落が、このような山村の代表格として紹介されていて、集落内の標高差が390mあると書かれている。しかし、地図を見ても「落合」という集落は確認できない。それはおそらく、県道32号線と140号線の分岐点=松尾川祖谷川が合流する所=「出合」のことだろう。私が一見して驚嘆した場所である。)
 平家の落人はこのあたりにも住んでいた、という話は聞いたことがあるが、果たして本当かどうか…。それが真であるにしても偽であるにしても、ここに住み着いた人というのは、もともと何を生業として生を繋いでいたのだろうか、と疑問に思わずにはいられない。
 ここに匹敵する場所として思い浮かぶのは、私の経験の範囲ではネパールくらいだ。正確にはネパールではないのだが、昔、チベットに行った時、チベット高原の一番端っこ、中国領のニェラムからザンムーまで歩いたことがある。本当は車で通過するつもりだったのだが、途中土砂崩れで不通になっていたため、崩落箇所を歩いて越え、そのままザンムーを目指したのだ。15㎞で1500mあまり高度を下げる。この道がすごい道だった。途中、道の行く手に横から流れ落ちている大きな滝が見えてきたので、それも崩落箇所であって、もうこれ以上は先に行けないと思ったら、空中に飛び出している滝の流れの裏側、山の斜面との間を道が通っていて驚いた。後にも先にも、大きな滝の流れの裏側を見たのはこの時だけである。祖谷街道もそんな道だ。しかも、ニェラム〜ザンムーは、終始そんな危険な道だったわけではなく、そんな所もあったというに過ぎないが、祖谷街道は少なくとも出合〜西祖谷のほぼ全区間でそんな道だ。ザンムーはネパールのコダリという集落にほぼ隣接していて、そこからバラビゼという町に至るまで、両側に時折、急斜面にへばりついた民家と段々畑が見える。記憶はかなり曖昧だが、祖谷の集落はその情景を思い出させた。
 かずら橋の最寄り駅はJR土讃本線の「大歩危(おおぼけ)」である。吉野川の流れが、独特の渓谷美を作っている大歩危峡も観光地として有名だ。この「大歩危」というユニークな地名は、元々この地方で、崖地の険しい所を「ほき」とか「ほっけ」とか言ったことによるらしい。「ほき」「ほっけ」に「歩くのも危ない=歩危」という漢字を当てるのは自然だが、普通、言葉というのは元々音があって、後から文字を当てるものである。だが、「ほき」が「歩危」であるというのは、少々出来がよすぎる。だから、最初に「歩危」という漢語を作って、後から「ほき」とか「ほっけ」という読みを当てたか、それらが同時に生まれたようにも見える。仮にそうだとすれば、地名そのものが新しいということになり、ますます、この地域の歴史というものが気になってくる。
 危うい道路をやっとの思いで通り抜けて、西祖谷村に入ると、そこには意外にも多くのアパートが建っている。ここに住んでいる人たちは、昔から祖谷に住んでいたわけではないだろう。大歩危で泊まった宿で聞けば、ホテルや売店などの観光業に関わる人たちが住んでするのでは?と言うが、本当かなぁ?
 金刀比羅宮を訪ねた時には青空が広がっていたのに、かずら橋に向かう途中からは雨が降り始めた。まだ14時半だというのに、深い谷の中では、もう間もなく日暮れかと思われるような薄暗さだ。せっかくレンタカーもあることだし、更に奥の二重かずら橋まで足を伸ばそうかという気持ちはすっかり失せていた。さほど高くもなく、下が透けて見えるとは言え、転落する心配もないかずら橋を、子どもたちはキャアキャア言いながら、欄干にしがみつきつつ渡る。もうそれで十分に満足だそうだ。
 大歩危駅小歩危駅の間にある宿に妻子を下ろして、私1人が阿波池田駅まで車を返しに行った。小歩危駅の方が宿に近いものだから、帰路は小歩危で下り、翌朝は特急列車の止まる大歩危駅まで宿の車で送ってもらった。その都合で、私は小歩危大歩危を未乗区間として残してしまった。半ば「乗り鉄」である私としては痛恨の一事であった。