坂本龍馬・・・四国旅行(5)

 高知という所は、坂本龍馬なしでは夜も日も明けないところである。どこへ行っても龍馬の名前があふれている。空港は「高知龍馬空港」だし、「竜馬がゆく」というお菓子があるかと思えば、「龍馬」という焼酎もある。タオルやTシャツのデザイン、或いは名前が入っていなくても、龍馬らしき人物のイラストが描かれたパッケージも目に付く。高知駅前や桂浜を始めとして銅像も多いし、毎年2月に行われるマラソン大会は、「龍馬マラソン」と名付けられている。
 さて、高知城にほど近いところに、坂本龍馬生誕の地があって、大きな看板が建ち、石碑があり、写真をはめ込んだプレートも建っている。生家は現存していない。近くに高知市立「龍馬の生まれたまち記念館」がある。
 今日、これだけ大々的に坂本龍馬がもてはやされているにもかかわらず、ゆかりの物がほとんど残されていないのは、彼が脱藩したからであろう。
 龍馬脱藩の場面というのは、『龍馬がゆく』の中で、私にとって最も印象的だった場面だ。おそらく、それを読むまでの私は、脱藩というのを、今日の人が会社や学校など、自分の属する組織を辞めるのと同じに考えていた。だが、それは次元の違う大きな決断だったのだ。司馬遼太郎は次のように書く。

兄「家から脱藩人が出たとあれば家がとりつぶされるかもしれんぞ。」
姉「脱藩すればもう二度とお国に戻って来れませんよ。(中略)むろん、脱藩人にうちからお金を送るわけにも行きません。どこぞの野末でのたれ死にしてもどうしようもないことです。」

 後者の「姉」とは「お栄」のことである。この姉は、脱藩する龍馬に陸奧守吉行という名刀を与えた上で自害している。有名な乙女という姉は離縁して家に戻った。司馬は、これらのことについて次のように書く。

「天が、龍馬という男を日本歴史に送りだすために、姉の一人を離縁せしめ、いま一人の姉に自害までなさしめている。異常な犠牲である。」

 「異常な」が「犠牲」にかかってはいるが、異常なのはもちろん、犠牲を生む元になった脱藩である。脱藩が異常であるために、その代償もまた異常なのだ。なるほど、藩士は藩によって丸抱えにされているわけだから、それを辞めるということは全てを失うということなのだ。脱藩という行為は、そもそも、可能であるとも許されるとも想定されていない。身分社会とはそのようなものらしい。
 「龍馬の生まれたまち記念館」で、脱藩は「パスポートを持たずに外国に行くようなもの」と解説されていた。これは違うだろう。パスポートを持たずに外国に行けば、強制送還されるのがオチで、送還された人が日本に戻ってすら入国を拒まれることはないが、脱藩すれば国には戻れなかった。相手国で入国は許されるが、保護は一切なく、故国に戻ることも出来ない、脱藩とはおそらくそのようなものである。
 私が心底すごいと思うのは、その覚悟だ。龍馬が死んで150年以上が経ち、その業績が今日の価値観によって高く評価された後だからこそ、脱藩の積極的な意味も評価できるだけである。龍馬が脱藩したその時点に立って考えれば、ただ失うものばかりが大きく確実で、成果が得られる可能性は極端に低い。尋常な人間なら将来へ向けての展望を持つことは難しい。よほど見境のないバカであるか、よほど強い確信がなければ脱藩は出来ない。バカと天才は紙一重というが、龍馬には、龍馬にだけ見えていた確信があった。司馬の記述を信じれば、離縁し、また自害した2人の姉は、龍馬の背中を押したらしい。彼女たちもまた、龍馬の脱藩という決意に賭けた。
 龍馬が死んだ時、倒幕、維新政府の樹立という作業は道半ばだった。古来「棺を蓋いて名定まる(棺桶の蓋を閉めて初めて、その人を正しく評価することが可能になる)」という言葉があるが、龍馬の場合、棺の蓋を閉めた時にも、決してその行動の価値を正しく評価することは出来なかっただろう。つまり、龍馬も離縁した姉も、龍馬の決意に賭けたものの、報われたという確信を持つことができないまま、世を去った。実に不憫であると感じる。
 だが、歴史の中には、龍馬と同様に何かに賭けて必死の行動を起こしつつ、野垂れ死にと言ってよいような最期を迎え、名を残すことがなかったたくさんの人たちがいるに違いない。そのような人たちの方が、龍馬のように名を残した人間よりも圧倒的に多いだろう。それに比べると、龍馬の場合はまだよい。龍馬の生誕地を訪ねて、私の脳裏を駆け巡るのはそのような想像であり、思いだ。どうも、こういうことを書いていると旅行記にならない。