主観も予防も権力も怖い・・・僧衣運転取り締まりの愚

 2〜3日前からだったか、福井県で僧衣を着たまま車を運転していたお坊さんが、僧衣で車を運転していたために違反を取られたというニュースが、新聞各紙でも報じられ、話題になっている。私は最初読んで笑ったのだが、間もなく、とても怖いニュースだと気付き、その後の情報を気にしている。
 この規則は、なんでも福井県だけの規則で、「運転操作に支障を及ぼすおそれのある衣服」での運転を禁じたもので、違反すると単なる注意では済まず、青切符を切られて6000円の反則金を納める必要があるらしい。当事者であるお坊さんは、この摘発を承服できないとして、反則金の納付を拒んでいるらしい。
 昨日の毎日新聞日曜版、私がいつも楽しみにしている「松尾貴史のちょっと違和感」でも、この件が問題とされていた。松尾は、相手が首相、いや、少なくとも政治家でなければファイトがわかないのか、いつもほど切れ味のよい批判を展開はしていないが、この規則の適用が主観に左右されやすいこと、過去に運転者が僧衣を着ていたために事故を起こしたという話を聞かないこと、という2点を理由として、過剰な処分であったと批判している。
 私が「規則」、特にその運用について考えることは、かつて(→こちら)と変わっていない。規則は規則だと言って取り締まるのではなく、常に、規則が人間生活を円滑に進めるためにやむを得ず作られていることを忘れてはいけない、というのが主旨だ。その記事には書いていないが、予防的措置は常に過剰になる性質があるので、その危険性は常に肝に銘じておく必要がある、というのも私がよく書く話だ。
 それらとの関係で言えば、今回の件は、運転操作を誤れば自分が痛い目に遭うだけではなく、人に危害を与えかねないわけだから、取り締まりの対象となっても仕方がない、ということになるが、そうとは言えない。何と言っても予防的な規則だからである。しかも、松尾が言うとおり、どうもかなり主観によって左右される規則のようで、これも甚だ危険だ。どうしてもこの規則が必要だというのなら、私が捕まったシートベルトと同じく、実際事故を起こした時に、罪や被害者への補償金・慰謝料を加重すればいいのである。事故が起きてからでは遅い?いや、予防がエスカレートすることのうっとうしさや危険に比べれば、事故の方が「悪い」とはあながち言えない。
 とにかく、権力というのは怖い。たかだか青切符1枚とは言っても、この程度のことで6000円の支払いを強制できるくらいだ。反則金の支払いを拒んでいるお坊さんは立派なものだが、このまま行って、期限内に反則金を納めなければ、どんなに精神的に応援している人がたくさんいても、規則を盾に反則金に上乗せが付いたり、それでものっぱれば、やがては身柄を拘束されたりということになりかねない。この世は実に不条理である。
 少なくとも私の身の回りで、世の中が窮屈だと嘆く人は多い。萎縮傾向が強いという嘆息もよく耳にする。ネットを中心とする私的メディアが普及することで、姿の見えない私的制裁が行われることが要因だろうが、それに関わる形で、予防的な行動が増えることこそが萎縮である。
 実際に現場を見たわけではないとはいえ、僧衣のお坊さんを福井県警の警察官が摘発したのは、明らかに過剰な摘発だ。1人の警官の主観によって、予防をエスカレートされてはたまらない。今回の摘発だけの問題ではなく、そういうことをする警察官は「県民の平和を守るために」と言いながら、他にも変なことをたくさんしているだろう。そしてそういう人は、世の中をぎくしゃくさせ、住みにくくしていることに気付かず、規則をしっかり県民に守らせることで平和な福井県を作ることに自分が貢献しているという満足感に浸っているはずだ。1人1人の警官に交通違反摘発のノルマがあって、年度末を前に、そのノルマを達成できずに焦っていた警官が、僧衣に目を付けたということはないのだろうか?という想像もしてみる。
 とにかく、自分がかわいい、人から認められたいという人間の性質は怖い、融通の利かない頭、木だけを見て森を見ることのできない頭は怖い、そういう人間が権力を持っているのはもっと怖い。他愛もない個人の不祥事を正義感気取りで袋だたきにする暇と力があるなら、その暇と力とをこのような権力の横暴にこそ向けるべきである。