優れた建築 古さが風格に・・・「声の交差点」

 2月2日に「物を大切に使う文化を!・・・県美術館移転について」という一文を書いた(→こちら)。昨秋、県美術館移転の話がにわかに出てきて以来、私は「もったいない、もったいない」と思い続けてきた。当然、同じような考えを持つ人はたくさんいるだろうと思い、連日のように河北新報に載るいろいろな人の意見に目を通してはいたが、なぜかそのような意見にはお目にかかれない。「学年だより№36」で、生徒に「これは考える練習にいい問題だから、作文して新聞に投稿してみたら?」と勧めた手前もあるし(→こちら)、よし、ここはひとつ実行によって範を示してみようか、という気持ちが兆してきた。2月16日のことである。
 1300字制限の「持論時論」というコーナーに書くほどのことでもないので、500字制限の「声の交差点」にした。15分ほどで作文をして、メールで送った。2月2日記事を整理し直したものである。
 早くも翌々日、自宅の留守電に電話がかかってきていた。近日中に掲載したいが、一度お話をしたい、とのことだった。夕方6時半に電話をしたが、担当者は帰宅してしまっていた。書いてしばらく経つと、どんな文章でも直したくなるものである。私は改訂稿を作り、改めてメールで送った。
 担当者と話が出来たのは、その更に2日後である。ぜひ掲載したいが、文章はあれこれ直させて欲しいということだった。私の作文が、今の建物を壊すという前提になっている点が問題だという。これは確かにそうだ。県は、新たに作るコンサートホールに美術館を併設すると言ってはいるが、今の建物を壊すとまでは言っていない。そのことは私も知っていた。しかし、今の美術館の改修費用があまりにも高くつくから、いっそのこと新設だと言っているのも確かである。だとすれば、今の建物は壊すという以外にないはずだ、とも思っていた。しかし、500字に満たない字数では、そこまで書くことが出来なかったし、字数を費やして解説する必要があることにも思えなかったので、壊すという書き方にした。
 電話でその点を指摘された時、それなら手を加えられても仕方がないな、と思った。「持論時論」なら、記者が直した原稿が送られてきて確認・手直しすることができるが、「声の交差点」はそのような手間はかけないらしい。どのように直したいかということを、電話口であれこれ言われたが、たとえ500字に満たない作文とは言え、口頭では文章全体の状況を客観的に見ることができない。面倒くさくなったので、お任せしますみたいなことを言って電話を切った。
 今朝の河北新報に載っていた、記者が手を加えた本文は以下のとおりである。ちなみに、タイトルは「優れた建築 古さが風格に」となっていた。

 

「昨秋にわかに持ち上がった宮城県美術館の移転について、多くの反対意見が表明されているのを目にする。私も県の方針には否定的だ。
 私が県美術館へ行くのは2~3年に1度だが、老朽化を感じたことはない。築40年に満たないのに、移転・新築が必要とは思えない。
 もし専門家が本当に、老朽化で維持が困難と判断しているのであれば、今の建物を維持することは確かに、新築する以上に経費がかかるのかもしれない。
 だが、環境問題が深刻さを増す中、県が「古いものの改修より新築の方が安い」「安い方法こそ一番」という経済合理性ばかりを優先するのはいかがなものか。県は公的に「物を大切にする」ことを一つの文化として発信してほしいと思う。
 県美術館は前川国男設計の優れた建物だ。良いものは、大切に使い続けることで風格を帯びるようになり、それがいっそう価値を高めることになる。
 県美術館の優れた収蔵品も、時間を超えて大切に守られている。その芸術的価値を理解せず、価格という価値観でしか見ることのできない精神と、コストだけを基準にした移転・新築の考え方が重なり合うように思えてならない。」

 

 え?これ本当に私の文章?というほど直されている。3分の2くらいは直されている感じだ。主旨はかろうじて守られているけれども、この文章を「平居が書いた」と言われるのは、正直なところ極めて不本意である。特に最後の段落は無惨だ。内容の分かりやすさもともかく表現において、私が書いたオリジナルの方が断然いい。新聞社のプロのライターに対して不遜なことを言っているようだが、私だって著書が3冊も世に出ているのである。物を書くことについて、まったくの素人というわけではない。
 申し訳ないので、オリジナルをこの場に併載することはしないが、記者による手直しを文字の形で確認させてもらえない「声の交差点」には二度と出さない。そんな決意をした。

 ま、そのことは別として、とにかく「金」のことばかり言いながら美術館を新築することには絶対反対。今の建物を大切に大切に使い続けて欲しいものだ。