図らずも終刊

(2月28日付け「学年だより№40」より)

 先週土曜日の新聞で、右のような訃報が目に止まった(ブログ用の注:2月22日河北新報の池田正穂氏訃報貼付。そこに、事件の概略も書かれているので、以下は記事にない点についての補足)。諸君は「第五福竜丸事件」を知っているだろうか?アメリカが水爆実験を行った際、危険区域に指定された場所の外で操業していたにも関わらず被曝。23人の船員のうち1人が直後に死亡し、他の船員にも後遺症が残った。今でも、原水爆の非人道性を訴える材料として、よく話題になる。
 あさってで事件から66年。2月24日には、この事件を語り継ぐための集会が東京で開かれた。池田さんが亡くなったことで、生存者は3名になったという。

 

【相対的思考・表現を超えよう】

 ずいぶん昔のことに感じられるが、学年集会(パネルディスカッション)の話を蒸し返す。
 某君から「~と思う人は立って下さい」との呼び掛けがあった時、あるクラスでは全員(?)が立ち、あるクラスでは誰も(?)立たなかった。どうもこれは胡散くさい。問題の性質からしても、ゼロか100かということはあり得ない。全員かゼロかという状態からは、「周りの顔色をうかがい、多数に合わせる」という気配が濃厚に感じられる。そのような考え方を「相対的思考」と言うが、それは果たしていいことなのだろうか?
 次のような話がある(早坂隆『世界の日本人ジョーク集』中公新書ラクレ、2006年所収)。

「ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。
 船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。
 アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
 イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
 ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」
 イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
 フランス人には「飛び込まないで下さい」
 日本人には「みんな飛び込んでいますよ」」

 あくまでもイメージだが、国民性というものをなかなか上手く表現しているな、と感心する。確かに、周りの顔色を見ながら自分の意見や態度を決定するというのは、日本人の得意技である。一概に悪いとは言えない。「TPO」という言葉もあるとおり、状況を見ながら態度を決めることは大切で、「常識」も多くはそうして形成される。
 だがやはり、まずは自分なりにどうすべきか考え、自分の本心に従って意思表示するというのが最優先だ。そうでなければ、周りの人が間違った方向に進み始めた時、その集団は取り返しのつかない大暴走に陥ってしまう。戦時中の歴史を学ぶと、それはとてもよく分かる。

 

(裏面:2月12日付け毎日新聞「食や移動手段見直しCO₂削減」を貼付。
平居コメント:老若男女を問わず、環境問題について作文を書くと(ex,昨年の総合学習でやった社会問題研究や新聞への投書)、人は決まって「出来ることから始めたい」と書くのに、私が見たところ、実際真剣にCO₂削減に取り組んでいる人はまれである(もしくは、「出来ること」のレベルが低すぎる)。「出来ること」はいくらでもある。「後悔先に立たず。」)

 

*これら以外の記事は省略。
*周知の通り、突如年度内休校が決定してしまったので、今年の「学年だより」は、図らずもこれで終刊。