あっぱれ、シンガポールの教育

 世の中(特に政治)で起こっていることがあまりにも下らないので、最近、あまり社会的な問題に触れていない。ちょっと2月29日の朝日新聞記事に触れておこう。「多事奏論」というコーナーで、書いているのは編集委員の山脇岳志氏。見出しは「シンガポールの教育 国立大『未来のため』脱皮」というものだ。
 山脇氏も「日本以上の『受験戦争』との見方もあるシンガポール」と言うとおり、資源も土地もない都市国家が世界の勝ち馬になるために、ひたすら子どもにプレッシャーをかける、というのが私のシンガポールに対するイメージだ。ところが、この記事を読むと、決してそれだけの国ではないらしい。
 シンガポール国立大学元学長へのインタビューを基に山脇氏が書き留めていることで、私が共感や羨望を持って読んだのは、次のようなことである。(そのままの引用はしにくいので、多少文言を整理する。)

・大学ランキングを気にしていないと言えばウソになるが、それに基づいて思考し、戦略を立てることはない。ランキングを上げようと思うと、大学は似通ってしまう。各大学が、それぞれの目的やどんな価値を学生に提供できるか考えることこそ重要だ。
・1年次の成績を、就職などの際に採用側が見る成績評価に繰り入れないことで、学生が不得意な科目を履修するように奨励している。将来それが役に立つこともあり得るからだ。
・卒業生は、大学入学から20年間は大学に戻ることができ、新たなスキルを学べるようにしている。

 これらが偉いと思うのは、目の前の利益に振り回されず、長い時間的射程に立って考えているという点だ。特に私が偉いと思ったのは、上の2番目の点だ。「将来役立つこともある」、これは裏返せば「将来役立たない可能性もある」ということだ。だが、このようなロスを覚悟した上でなければ、本当に価値あるものは得られないだろう。学生に迎合する姿勢が感じられないこと、つまりは大学側の主体性が明確である点も素晴らしい。単に、それらの原則に基づいてカリキュラムが組まれ、制度が作られるというだけでなく、大学、もしくは国家が、教育に対してそのような姿勢で臨んでいること自体が、学生を刺激し、利益最優先の生き方から脱して、生涯伸び続ける重要な契機となるだろう。
 元学長氏は「教育とは未来のためにある」と語る。あまりにも当たり前のことだ。しかし、当たり前を当たり前に実行することは、いかなる場面においても難しい。それは「未来」をいつと設定するか、という問題でもある。
 もちろん、私がシンガポール国立大学の取り組みに感心するのは、その正反対の姿として日本を思い浮かべてしまうからである。両国の違いは、長い時間が経てば立つほど大きくなるだろう。
 シンガポールは、上にも書いたとおり資源も土地もない上、国民1人当たりで日本の1.5倍近い石油を燃やす「文明」国家である。産業構造からしても、私が最も否定的に見る国の一つなのだが、それでも、今回の記事にある国立大学の教育理念などを見ていると、日本よりは明るい将来があるように思える。確かに「教育は未来のためにある」のだ。