東京五輪の延期について

 今日、宮城県七ヶ浜町で肺炎の感染者が出たらしい。七ヶ浜というのは、私が勤務する塩釜の隣町で、私の勤務先から自転車でも15分か20分の所である。少し(少しだけ)身近な話になってきた。
 学校では、昨日から部活解禁の通知が来て生徒が来始め、24日に書いたとおり、来週月曜日には離任式と終業式を抱き合わせで行うことを決めたばかりである。これでまた「振り出しに戻る」だと、何とも疲れる話である。
 さて、東京オリンピックの延期が決まった。期間は「1年程度」だそうである。この曖昧さは仕方がない。準備の都合もあるだろうが、何より、問題の肺炎がこの後どのような推移をたどるか分からないのである。1年後にも「やっぱりできない」と言っている可能性もある。
 日本国内を見ていてもさほど実感はないが、欧米の爆発的な感染者数の増加を見ていると、仕方のない決定だと思う。会場やチケットといった実務的なことはともかく、代表選手の選考をどうするかということも、各所で問題にされている。
 延期に当たって、マラソンが真っ先に既に選考された選手の選び直しはしないことを宣言したのは立派であった。スライドさせられるものは、できるだけスライドさせるべきだ。
 スポーツなんてしょせん遊び、その価値が肥大しすぎた今の社会は異常だ、というのは確かなのだが、一方、4年に1度の大会のため、正に生活の全てを犠牲にして努力してきた選手たちを尊重することは必要だ。いわば自然災害による延期である。サッカーの年齢枠をどうするかも含めて、今年オリンピックが開催されていたことを前提として、つまりは「今年のオリンピック」を来年開催するのである。もちろん、まだ代表選手が決まっていない種目については、今後一定の時間をかけて選考を続けることが許されるだろう。
 確かに、1年間遅らせることで調子を落としたり、衰えたりする選手もいるかも知れない。ごりごりのメダル主義者は、来年の時点で最もメダルに近い選手を選ぶべきだと主張するだろう。だが、私はオリンピックの開催そのものがスポーツと同じだと思う。東京オリンピックは2020年に開催するというルールがあったのだ。
 既に代表権を得た選手が、今後1年間実力を維持し、もしくは更に実力を付けていくというのは並大抵のことではない。おそらく誰でも、本当に一生懸命そのような作業に取り組むだろう。だが、どうしても現在の実力を維持できなかったとか、思いもかけない有力選手が現れたとかであったとしても、ルールから外れているからといってあきらめればいいと思う。それで、日本人選手が獲得するメダルの数が多少変わったとしても、私には、それがたいした問題には思われない。
 ともかく、まずはこの世界的な大騒ぎが早く収束することが先である。