命の哀しさ

 今朝6時過ぎ、新聞を取りに外に出たら、やかましいほどのヒバリの鳴き声が聞こえた。もしかすると、ヒバリは毎日同じように鳴いていたが、私が意識しなかっただけかも知れない。ともかく、ああ、元気にしているヒバリがいたんだ!と嬉しくなった。
 かつて幾度となく書いたとおり、我が家の南側は、東日本大震災津波で壊滅した南浜町である。その更に南は太平洋で、その海岸地帯を雲雀野(ひばりの)という。古い地図を見ると、馬場があったりした所だ。我が家からだいたい7~800mといったところだろう。
 なぜそこを雲雀野というのか?その謎は、震災後によく分かった。津波で壊滅し、荒野となった南浜~雲雀野では、けたたましいほどにヒバリの鳴き声が聞こえたのである。かつてはヒバリの楽園で、人間が侵略してくることによってすみかを奪われていたが、津波で人間がいなくなった後で、かろうじて生き残っていたヒバリが自分たちの世界を取り戻し、繁殖した、という状況が容易に想像できる。
 ヒバリの楽園となった雲雀野+南浜は、復興祈念公園とやらを作るための大土木工事によって、あっという間に埋め立てられ姿を変えていった。おそらく、おびただしい数のヒバリが巣を壊され、命を奪われたことであろう。・・・くたばれ人間。
 しかし、全滅はしていなかった。今朝、空高くにヒバリの鳴き声を聞いた喜びというのは、そんないきさつによる。
 少し話は変わる。
 温暖化対策の一環として、1年半余り前から、私が生ゴミを庭で処理することにした話はかつて書いた(→こちら)。今でも続けている。たいした手間ではない。生ゴミに動物が集まり、それを掘り散らかすということもない。動物たちは、たいていのゴミに無関心である。
 魚料理を作った時の頭やはらわた、食べ終わった時の骨といった動物性のゴミは、穴とは別の場所に捨てる。獣道らしきものの入り口だ。置いておくと、こちらはあっという間になくなる。一番敏感なのはカラスだが、夜に捨てた時などはネコやキツネの可能性が高いと思っている。本当にすぐになくなるのだ。
 動物性の餌を求めている動物がいるのは、ある意味で当たり前である。だが、なんだか哀しい気分になる。生き物は全て「生きたい」と思っているのに、必ず他の命を奪わなければ生きていけない命というのがあって、みんなの「生きたい」という思いを尊重することは絶対に出来ない、そんなふうに世の中は出来ているのだ。あっという間になくなる動物性のゴミを見ていて、そんな冷酷な自然法則をストレートに突きつけられた気分になる。生き物の世界は哀しい。どうして、神はこの世をそんな風に作ってしまったのだろう?
 私もやがて死ぬ。死ぬ前に食べられるのは嫌だが、死んだ後には動物たちに食べて欲しいと思う。少なくとも、石油を燃やし、多量の温室効果ガスをまき散らしながら火葬されるよりはいい。今の法制度の下では、それはできない。やっぱり人間は変だ。