あらゆる場面で「主体性」を鍛える

(5月19日付け「学年だより№46」より②)

【生活の全てで「主体性」を鍛える】

〈エピソード1〉落とし物らしき教科書が届いた。名前は書いてある。電話をかけようとする担任に、私は「そんなことする必要ないよ」と言った。
〈エピソード2〉メーリングリストに登録していない人には電話をした方がいいかな、という話が出た時、私はやはり「そんなことしない方がいいよ」と言った。


(教科書がなければ普通は困る。まずはなくした本人がせっせと探せばいい。探すとすれば、落とし物として届いていないかどうか、本人が問い合わせて来るだろう。また、メールを受信できる環境にありながら登録していないとすれば、本人が悪い。メールを受信できないなら、友人に何かあったら教えて欲しいと頼んでおく、時々学校に問い合わせるなど、フォローの仕方を自ら考えるべきだ。わざわざ私たちが電話をかける必要があるとすれば、例えば、「持って来なくていいよ」と言っていたものを「やっぱり持って来なさい」と前言変更するくらいではないか?ぼんやりと待っていれば、学校から手が差し伸べられる、と思ってはいけない。)


〈エピソード3〉送付物に不足があったという電話を受けた。保護者からだ。


(えっ!どうして生徒本人からじゃないの?私は、昨年3月の入学者説明会で、自分で出来ることは自分でしなさい、親が学校に連絡するのは、欠席の時と、特別な家庭事情に関することくらいですよ、と強く言ってある。思い出してみよう。)

 

 私はよく「勉強は学ぶ側の主体性にかかっている」ということを言う。主体性(能動性)の大切さは、いわゆる「勉強」をしている時だけの問題ではない。生活のあらゆる場面で、諸君は主体的で自立した人間になるべく努力すべきだし、私たちにはそれを促していく責任がある。しかし、世の中はサービス過剰で、学校にも、べたべたと世話を焼く人が親切でいい先生だとの思い込みがあるかも知れない。
 だから、なぜ私(たち)が、上のような一見不親切な対応をするのか?そこにある意図は知っていた方がいい。なお、このことは私の独断ではなく、私たちの「学年目標」として設定してもある。今年の「学年目標」(昨年とほとんど変わらないんだけど・・・)については、実質的な年度始めである6月1日に配るので、その時また復習すること。


裏面:3月27日付け毎日新聞校閲発 春夏春秋」を貼り付け。
コメント:少し縮小したので読みにくいかも知れないが、休業中の課題の一部である(笑)。「校閲」とは、文章の間違い(内容と表記)をチェックすること。新聞社には、専門の部署があり、その道のプロが、問題ある記事を印刷してしまうことのないように目を光らせている。ネット情報より新聞の信頼度が高い重要な理由だ。その苦労談を読むと、言葉を扱うことの難しさがよく分かる。だが、それは同時に、言葉の豊かさということでもある。