類は友を呼ぶ

 こんなに痛快なことはない。黒川検事長の賭け麻雀→辞任が、である。安倍首相が、検察までを意のままにしようと企んだに違いない、極めて不正・強引な法令解釈変更によって検事長になった人物である。賭け麻雀そのものは、一般人がやったなら他愛もないと笑って済ませられるレベルかと思うが、何しろ地位が地位だし、マスコミが相手ではいけない。今回はそうではなかったが、政治家も相手としてはNGだ。特定の、特に社会的な力を持った人との癒着は避けなければならない立場なのである。
 NHKの世論調査で、安倍内閣を支持しない理由トップは、常に「人柄が信用できないから」である。まったく妥当な評価だと思う。民主主義を根底から壊し、口では「誠実に」と言いつつ、実際にやっていることは不正実そのもの。最も子どもに見せたくない大人、いや、反面教師にふさわしい大人の典型である。だが、もしも本当に不支持の人が4割前後もいて、そのうちのやはり4割くらいの人が彼の人間性を信じていないなら、自民党の票がもっと減ってもいいはずだが、なかなかそうはならないところが、私が世の中の人々を信じられない理由である。それはともかく・・・。
 野田正彰『させられる教育』(岩波書店、2002年)という本がある。かつて2度ばかり、このブログにも引用したことがある(→例えばこちら)。書いてあることが真実で、それ故にこそ絶望的に暗いという困った本である。かつて触れたのは、2回とも同じ部分についてだ。それは、「日の丸・君が代の強制には、なぜか破廉恥教員や官僚、国会議員が必ず登場する」という部分だ。
 1人の人間にはいろいろな側面がある。同一人物がジキルにもハイドにもなるというのは特別なことではなく、普遍的な話である。だが、小説の中ならともかく、実際の人間は1人の統一された人格である。多面性を持ちつつも、基本的に渾然一体であり、ジキルとハイドは表と裏、タテマエとホンネの関係であって、根本的に違う要素を併せ持っているわけではないように思う。
 信用できない人間のやることは、根底において信用できない。類は友を呼ぶと言うとおり、信用できない人間の周りに信用できない人間が集まるのは、この世の道理である。
 ただし、悪いやつほど尻尾を表さない。状況証拠によってどんなに悪いと確信できるやつでも、悪いと証明できる場合は多くない。悔しいけど、これもまたこの世の真理、というやつである。
 だから、安倍首相の周りに信頼するに値しない人間が集まるのは当然なのだが、それが表面化する可能性は高くない。その高くない可能性が、今回めでたく現実化した、ということだ。
 人間には、自分を守りたい、自分の存在をより大きく評価して欲しいという強固な本能がある。その本能を利用して、人を意のままに操るための最大の武器が「人事」だ。それを利用して、自分の思い通りのことをしようとする。自分の思い通りのことをするというのが、世の中のためだという信念に基づくならいい。だが、安倍首相が、彼の思い通りのことをすることが、世の中のためになると信じているとしたら、それは「まだまだお勉強が足りませんね」というレベルであろう。
 こんなにデタラメなことをやっていて、どうしてこんなに支持率が高止まりしているのだろうと、半ばいらいらしながら世論調査の結果を見ていたが、このところ、ようやく、正にようやく支持率の低下がはっきりしてきた。それでもまだまだ。やっていること、やって来たことの悪辣さと比べてみれば、あまりにも高い支持率だ。日本人、早く目覚めろよ。「桜を見る会」の告発、実を結ぶといいなぁ。