「匿名」は卑怯だ

 女子プロレスラーの木村花さんが死んだ。自殺だったようだ。出演していたテレビ番組での言動に対し、SNS上でかなり激しい批判を受けていたらしい。
 ネットの世界での口汚い誹謗中傷によって人が傷つく。あぁ、またか、と思う。同時に、そういうことを可能にしてしまう文明、その文明に振り回され、操られる愚かな「人間」存在に対する嫌悪感、といったものが強く湧き起こってくる。
 ネットの中で名前を隠し、いかにも正義の味方然として人に罵詈雑言を浴びせる人も、おそらく落ち度のない生活をしているということはない。いや、そもそも、人に罵詈雑言を浴びせること自体が立派な落ち度だ。彼らの行動は全て「匿名」であることによって誘発され、支えられている。
 かつて耳にした話。何かの折に、ネットで誹謗中傷していた人が誰であるかバレたことがある。鬼のような人間、日頃から社会生活において暴力的傾向のあった人間などではさらさらなく、むしろ、その人をよく知る人にとって意外という以外の何者でもないような、大人しく目立つところのない人間だったという。身分がバレるや平身低頭、ただひたすら謝罪の言葉を繰り返していたというのが、バカバカしくもあり、恐ろしいことにも思えた。
 匿名の言論などを認めるからこんなことになるのだ。匿名であることと「言論の自由」には何の関係もない。それこそ、世界中の人にIDを発行し、それを入力しさえすれば自動的に本名が表示されるシステムにでもし、その手続きを踏んだ時だけネット内で発言できるようにしてしまえばよい。
 強大な権力を批判する時、名前がバレることによって殺されるかも知れないというような時、内部告発など、匿名での発言に価値があるという場面もあり得る。しかし、発言の場はネットの中だけではない。実名を出したくない時には、別の場を探せばよい。ネットで全世界に向かって発信できることの手軽さと、自分の名前を公にすることのリスクとのバランスを考えるべきなのであって、リスクは嫌だが手軽さも手放せないから「匿名」というのは、虫のいい話である。
 SNSでもツイッターでも何でも、他人の名前や架空の名前を語ることは簡単である。そうすれば、いかにも本人が責任を持って発言していると見せかけることが出来る。
 私は、匿名の無責任、卑怯さを憎むので、私のこのブログを実名で公開している。それでも、私は今まで、私の名前を盗用して誰かが発言しているのを見つけたことはない(見つけた人がいたら、教えて下さい)。私の住所も電話番号もメールのアドレスも知っている人はたくさんいるが、その人たちに、そのような「個人情報」を暴露されたということもない。内容上の問題を指摘されたり、やや厳しく批判されることはあったが、その中に、「匿名による言いがかり」と感じるようなものはほとんどない。平均して、せいぜい年に1回くらいかと思う。
 私の知名度、存在感の少なさによる(いじめるほどの価値がない=笑)のかも知れないし、偶然かも知れない。いつ何が起きるか分からないという不安は心のどこかに感じつつ、現状を考えれば、世の中というのは案外良心的に出来ているのではないか?などとも思っている。日本だけで1億2千万人、世界では70億人を超える人が生きている。その人々の発言をいちいちチェックすることは不可能である。このブログが今のところまずまず平和であるのには、そんな事情もあるかも知れない。
 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というほどのことでもないが、メリットを手に入れようとする時に、リスクをゼロにするのが難しいのは、何もネットの世界で発言する時だけのことではない。メリットを手に入れる時のリスクをゼロにするために「匿名」という手段を使い、それに足をすくわれた形で勝手気まま、正義漢気取りの誹謗中傷へと走るとなれば、「気違いに刃物」というやつだ。匿名の発言を保証するよりも、実名による責任ある発言だけを受け付けることのメリットの方が大きい。技術的に可能であるなら、そうすべきだ。今のところ、私はそのように考えている。