新生活様式への違和感・・・河北新報掲載の拙文

 今日の河北新報「持論時論」に、私の文章が載ったので紹介しておく。見出しは新聞社が付けることになっているので、どうなるかな?と心配していたが、「『新生活様式』への違和感 人間関係への影響危惧」となっていた。そのものズバリ。悪くない。

「物事というのは、必ずメリットとデメリットを併せ持っている。メリットの副産物であるデメリットは、時間が経ってから現れ、しかもメリットよりもよりいっそう深刻重大なものになる場合が少なくない。経済活動による環境問題の発生などは、その分かりやすい例である。
 長い時間的スケールで現れ、因果関係を検証することが難しいからといって、そんなデメリットを軽視するのは危うい。
 現在、私が特に危惧するのは「3密」の回避、マスクの着用、消毒、頻繁・丁寧な手洗いなどが、「新生活様式」という言葉を得て、固定化されそうな気配であることだ。
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 「3密を避ける」とは、裏返せば「疎にする」ことだが、人間を「疎」にしようとすれば、集会が成り立たないのはもとより、人間関係そのものも「疎」になってしまう。
 マスクの着用も、熱中症の原因になるということよりも、いっそう深刻なのは人間関係への影響だろう。顔の半分以上を隠してしまえば、顔から人柄や感情を読み取ることは難しい。電車や店の中で、ほぼ全ての人がマスクをしている光景は異様である。ネットの中の匿名世界をほうふつとさせて恐ろしい。
 例えば、私が勤務する学校という場所は日々、生徒の状態を観察しながら教育活動を行うことが求められる。教員間の情報交換で、生徒について「今日は表情がいい」とか「悪い」とかよく言う。漠然とした表現だが、とても重要な情報だ。マスクはその障害になる。そもそも新入生ばかりでなく、1年以上付き合った生徒でも、目の前の生徒が誰だか分からない。
 人間が、人との関わり合いなしでは生きられないとすれば、人間関係を「疎」にすることは、人間社会をゆがめ、将来的に多くの社会問題を生み出すことになるかもしれない。ただでさえも、今の世の中では人間関係を煩わしいものとして敬遠しがちで、個人情報保護がそれを加速させている。犯罪の増加や解決の難化を引き起こす可能性もある。
 消毒にしても手洗いにしても、既に過度と言ってよいような現代人の清潔志向を、更に推し進めることになる。それは人間固有の抵抗力の獲得を阻害することになるだろう。
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 人と人とが目的と親しさに応じた距離で接し、表情を見ながらコミュニケーションを取り、きれい過ぎない環境で自然と共存していく。たとえ煩わしく、リスクがあったとしても、それが人間にとって本来の生活なのだということを、忘れてはならない。そんな生活を一刻も早く回復させる必要があるだろう。
 そのためには、感染症対策に極端なまでに特化した価値観を問い直すことが必要だが、まずは「新生活様式」といういかにも進歩、発展の先にあるかのような名称を廃し、現在の措置が臨時であることをはっきりと示すことから始めてはどうか。」


 私がこの文章の元になったものを新聞社に送ったのは、5月16日である。少なくとも、当時は「新生活様式」推進一色。それに合わせなければ非国民、と言わんばかりであった(今でも同じかも知れない)。世の中が同じ方向に動き、異論などあり得ないと思われるような時こそ危険だという思いもあったし、その頃、既に1ヶ月半あまり感染者が出ていなかった宮城県では、対策があまりにも過剰だとのいらだちもあった。
 6月5日の朝日新聞に、「『新しい生活様式』動物学者はどう見る」という記事が載った。取材を受けているのは認知行動学と動物福祉の専門家だという名古屋市東山動物園の企画官・上野吉一氏である。一読して、さすがだな、もしくは当然だな、と思った。よく似たことがたくさん出てくるので、河北に出した原稿は取り下げようかと思ったほどである。
 曰く「科学・医学と経済とのせめぎ合いの中で、主役のはずの人間一人ひとりの行動や心理という視点がないことに疑問を感じました」。
 曰く「ヒトの表情筋はサルより発達しています。その半分がマスクで隠された状態で、目の動きからどれだけのことが読み取れるのか。感染対策とコミュニケーションの質の、両立をかなえるデザインが必要です」、などなど・・・。
 私は以前から、人間という動物の原点というものをよく問題にする。動物としての人間が、元々どのような生活をしていたのか、文明化するということはそこから離れるということであるが、その際、常に「離れる」ことの是非を問い直し、それを最小限に止めようと努めるべきだ、という考えが、私の思索の根底にある。
 その後、今日の私の作文や、上野氏のような意見を目にすることが少し増えたような気がする。しかし、東京を中心とした継続的な感染者の発生もあって、「命には代えられない」という一言の下、この手の意見が主流派になっていくことはないだろう。その先にどのような社会のゆがみが待っているのか、私にも想像はつかない。それでも、「ゆがみ」が待っていることだけは分かる。絶対確実に、だ。そしてそのダメージは、おそらく肺炎よりも大きい。