山本直純のこと(2)

 拙著『冼星海とその時代』が刊行されてから間もなく1年になる。タイトル通り、その本の中で、私は冼星海(しょうせいかい 1905~1945年)という作曲家の生涯と、彼が生きた時代状況とを考察した。中国国内に共産党と国民党との対立がありながら、外敵である日本とも戦わなければならないという複雑な政治情勢の下で、音楽家がいかなる生き方をしなければならなかったか、言い方を変えれば、どのような生き方なら出来たのか。元々は、単純に冼星海が何者かという問題意識から出発したのだが、あえて、どのような思想的テーマを追求したのかと言われれば、そう答えるしかないだろう。
 中国共産党は、1930年前後に、「芸術は武器である」という芸術観を確立させた。芸術は政治的な宣伝工作の道具としてのみ価値を持つ、という考え方である。逆に言えば、芸術そのものが目的になってはいけない、ということでもある。
 上海の国立音楽院や、パリの音楽院で専門教育を受けた冼星海は、優れた交響曲を作曲し、「中国のベートーヴェン」になることを畢生の悲願とした。しかし、社会は音楽の大衆化と、それによってもたらされる政治的効果だけを期待していたのである。冼星海は、平明短小なプロパガンダソングの作曲と演奏という社会生活の背後で、ひっそりと交響曲を書き続けるしかなかった。
 表と裏、ホンネとタテマエが激しく対立・葛藤する中で、星海は「表向きの活動を公務としてこなした上で、裏で自分の世界を追求する」「戦時下の一時的な状況であるとあきらめて耐え、将来に期待する」という二つを処世方針として、その困難な時代を生き抜こうとした。言ってしまえば当たり前の、陳腐な処世術である。それでも、彼にはそれ以外にやりようがなかった。ここに表れているのは、更に言えば、芸術の大衆化と高度化の矛盾に、いかにして折り合い付けるかということである。
 これは、冼星海だけの問題でも、中国近代だけの問題でもない。芸術は常に新鮮で、より豊かな表現を求め、高度化を目指す。一方で、大衆に支持されない芸術は、経済的にも存在し得ない。芸術は誰を対象として何を目指すのか・・・古今東西に共通する永遠の課題であろう。
 さて、「山本直純」をタイトルとしながら、前置きが長くなりすぎた。だが、言うまでもなく、これは山本と決して無関係な話ではない。
「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ。」
 これは、1959年、ヨーロッパへ向かう小澤征爾山本直純がかけた言葉だと言われる。柴田克彦氏はその著書『山本直純小澤征爾』で「序」の最後にこの言葉を引く。確かに印象的な言葉だ。山本は、この言葉によって、小澤征爾と自分とで「高度化」と「大衆化」を役割分担することを提案した、と言い換えることも可能である。
 その少し前、1956年に日本フィルが創設された時、東京芸大指揮科で山本の師であった渡辺暁雄が常任指揮者に就任した。その時、渡辺は山本に、「私は定期演奏会をやるから、君はポップス・オーケストラをやりなさい」と言ったという。渡辺は山本の中にそのような資質を見出していたのだろう。山本は1979年、日本人として初めてボストン・ポップス・オーケストラの指揮台に立った。翌年もその指揮台に招かれ、山本は「日本のアーサー・フィードラー」と呼ばれるようになった。単に山本自身が「大衆化」を目指しただけではなく、そもそもそんな資質が彼の中にあったということなのだろう。
 斎藤秀雄門下の後輩・小沢征爾は、山本のことを最後まで尊敬していたらしい。実際、山本のあまりにも突出した音楽的能力については、私が知る限りでも、多くの人が驚きと共に書き残している。正に枚挙に暇がないといった感じだ。昨日引用した朝日新聞連載第3回だけでも、そのことはよく分かるのだが、せっかくなので、面白いからもう一つ、今度は『山本直純小澤征爾』の中で紹介されている岩城宏之の回想に触れておこう。渡辺暁雄の指揮科に入るテストの時の話だ。

「ピアノの前に座った渡辺は『いま叩く和音の中の、上から3番目の音の5度下の音を声に出してごらん』と言った。和音どころではなく、指10本の全部を使った目茶苦茶な不協和音だ。すると直純は即座に『アーッ』とダミ声を上げた。岩城は『聞いているぼくにはまったくわからない。どうせデタラメに怒鳴っているのだろう』と思った。だが渡辺が指定した音のキーを叩くと、ダミ声と同じ音だった。多分まぐれだと思った渡辺は『もう一度やってみようね』と言って違う不協和音を叩き、『今度は、下から2番目の音の6度上を歌ってごらん』『イーッ』今度も合っていた。全くできなかった(が合格はした)岩城は、完全に呆れ返った。『こんなことをできるやつは、日本に何人といないだろう。完全無欠な絶対音感教育の、しかも元々天才的な感覚を持っている人間でなければあり得ない。テストをする先生自身、絶対できないに決まっている。これは断言できる。』」

 そのあまりにも圧倒的な音楽的能力と、タレント的な素質故に、小澤征爾が出世街道をひた走っている時にも卑屈にならず、嫉妬もせず、「オーケストラがやって来た」のような場で、クラシック音楽の普及に精力を傾けることができたのだろう。
 小沢と山本が、高度化と大衆化を分担できたことは幸せであった。中国史で言えば、最前線の軍司令官として類い希な能力を発揮した朱徳と、背後にいて大局を見極め、先を見通しながら戦略決定をしていた軍師・毛沢東が、その一心同体の活躍故に、敵から「朱毛」という一人の人物であると間違われたこととよく似ている。一方で、冼星海はそれらを1人でしなければならなかった。苦しい。
 1978年、山本はNHK交響楽団定期演奏会を指揮することになっていた。N響正指揮者だった友人・岩城宏之が、「世界の表舞台に立つべき才能が、メディアに消費されてしまう」と危惧して実現させたものだという。ところが、山本はその直前に交通違反で捕まり、そのチャンスを反故にしてしまった。些細な違反だったにもかかわらず、芸能人顔負けの人気者であったために、ことさらに大きく報道されてしまったらしい。柴田は「N響定期への出演がもし実現していれば、その後の彼の活動と評価は、似た才能を持つバーンスタイン級へと、大きく変わっていたかも知れない」と書く。
 だが、これも宿命。何かの縁、というやつである。山本は、いわば正統なクラシックの畑には縁がなかったのだ。大衆化をこそ分担するように宿命付けられていた、と言ってもいいだろう。芸術の高度化と大衆化、この相反するような二つの作業を同時に行うことは至難だ。しかし、複数の人間で分担するなら可能となる。小沢と山本はそんなことを教えてくれているのではないか。(続く=そのうち)