仕事を増やす制度変更

 夏休みに入った。コロナ禍のあおりを受けて、2週間だけである。昨年、南アルプスに行って少し自信を付けたので、今年はこれも懸案、立山から雲の平を目指すぞ、或いは北に転じて斜里岳とニペソツかな、などと思っていたのだが、2週間しか「休み」(本当の休暇ではなく、授業のない期間の意味)がないと、なかなか窮屈で動く気にならない。夏休みに入った瞬間に梅雨が明けたというのは、「梅雨明け10日」を狙うには良かったのだけど・・・。8月末締め切りの論文に四苦八苦していたこともあり、今夏はあきらめて机に向かうだけの日々と腹をくくった。
 さて、もはや2週間ほど前の話。勤務先の学校では、わざわざ短縮授業にして時間を確保し、外部から講師を招いて校内研修会というものが実施された。お題は「新しい学習評価について」。
 新しい学習指導要領の実施によって、高校でも、観点別評価というものが実施されるようになる。単に考査点と平常点を足して「○点」というのではなく、「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」のそれぞれについて善し悪しを評価せよ、とのことである。既に小中学校の通信票はそのようになっている。
 聞いていて、「なるほどなぁ、そうすれば確かに生徒は学習に意欲的に取り組むようになるだろうなぁ」と、心明るくなってくる要素など何もない。ただただ面倒。私が今授業で受け持っている生徒の数=240人ということを考えると、なおさらである。机上の空論というやつだな、と思う。或いは、240人全員の一人一人について、授業をしながらそれら3観点の評価ができそうな気がしないのは、私の能力の低さ故なのであろうか・・・?
 そう言えば、一昨日、日本学術会議が「高校国語教育の改善に向けて」という提言をまとめたという記事が朝日に載った。よく見てみれば、提言をまとめたのは6月30日なので、どうして今頃記事になったのかは分からない。7月の頭に、既に他の新聞等でも報道されたが、私が見落としたか忘れたかしたのかも知れない。ともかく、この記事を読んで、そう言えばこれまた学習指導要領の改訂で、国語という科目が大きく様変わりし、それについて昨夏くらいから様々な意見が飛び交っているのを思い出した。飛び交っている「意見」のほとんどは極めて否定的なものだ。
 こんなことを思い出しながら、なんとなく嫌な気分になったところで考えた事がある。どうして学習指導要領は10年毎というペースで改訂され、そのたびにたくさんの大変更が行われるのだろう?大規模なシステムは変更すること自体が大仕事だが、加えて、変更を周知させるための研修会、会議、文書、変更後に新しいやり方を遵守しているかをチェックするための様々な手続きといったものに、教育行政や学校はどれだけ膨大な時間や労力を費やしているだろう?というようなことだ。学校のシステムを変えるのは、電灯のスイッチを入れるような簡単な作業ではない。それが、ひとつ終わったと思ったら、もう次の準備が始まるというペースで延々と繰り返されているのである。
 日本の教員が、他国の教員に比べて著しく多忙だというのは、よく言われることである。その理由として、文書処理や部活動が問題にされることが多いのだけれど、実は制度変更に伴う諸作業こそがその根っこにあって、なかなかバカにできない大きな負担なのではあるまいか?
 日々様々な問題を感じつつ学校にいる人間として、学習指導要領が改訂されることによって、それらの問題が多少なりとも解決される可能性を感じることは皆無である。そもそも、全国一律のシステムを作り、上意下達で管理監督するという発想が間違い。命令からいい物は生まれてこず、教員の豊かな発想や工夫の芽を摘むことにしかならない。どこかの国のように、学習指導要領のような国の指針は、日々悩む現場の教員にアイデアを提供する、それを使うかどうかは現場の判断、というものであるべきだ。
 また、ひどく基本的な知識や考え方を教える高校以下の学校では、ごく当たり前のことを徹底させることこそが大切である。後から後から策を弄することは、現場の抱える問題が制度のせいであるかのように誤解させ、むしろ大切な基本を見失わせる方向にしか進まない。大切なのはシステムではなく、教員個々の実力なのに・・・。
 では、なぜ政府が大改訂を繰り返すのかと言えば、時の権力者がそのような「不易」の大切さを理解していないのと同時に、自分の存在感を、前のやり方を「変える」ことでしか実感できないことによっているのではないか?中国でも日本でも、歴史をひもといてみれば、権力が交代すると暦を変え、職階を変え、度量衡を変えた。「俺の時代だ」ということを自分自身が実感し、天下にアピールするためであろう。現代の日本では、王朝転覆のような政治体制の革命的大変更はない。それでも、権力の中枢は絶えず入れ替わっている。その人達がそれぞれに「自分の時代」をアピールせずにいられない。
 現状にかくかくしかじかの問題があるから、それを解消するためにこうしましょう、ではない。まず「変える」ことにこそ意味がある。当然、その変更はコマーシャル的なインパクトを探し求める。時代を超えて価値を持ち続けるような教育とは、まったく相反する世界である。こうして学校は徒労感の大きな多忙から逃れられず、大切なことほどなおざりにされ、世の中は内側から崩れていく。