スポーツ庁「部活動改革について」(2)

 スポーツ庁が今回出した指針は、昨日書いたとおり、内容的においても表現においても非常に思い切ったものだ。それだけに、スポーツ庁の本気度がよく伝わってくる。
 しかし、そこにどのような問題があるかといえば、教員の休日部活動をなくそうと言っている根拠として、勤務時間だけが問題になっていることだ。それはそれで大切なことである。しかし、最終的に学校という場所をどのようにしようというのか、教員の本来の職務とは何か、更には、子どもたちのスポーツ活動はどうあるべきかということをセットで訴えていかないで、部活動を地域のものにすると言うだけでは、学校も混乱するし、競技団体によって子どもがおもちゃにされ、今以上の過熱状態が生じかねない。
 私は、学校を教科を中心とする勉強の場に限定すべきだ、という論者なのであるが、今の学校は限りなく「生活の場」である。それを単なる「勉強の場」にすることが可能かどうかについて、実はあまり自信がない。ウェットな国民性の反映として今の学校があるからである。感情(に基づくもの)を変えることは非常に難しい。本当の意味で教職員や保護者の間に合意を成立させていくことが必要だ。
 さて、次の一節を見てみよう。

「部活動は、学校教育の一環として行われる活動であるが、必ずしも教師が担う必要のないものであることを踏まえ、休日に教科指導を行わないことと同様に、休日に教師が部活動の指導に携わる必要がない環境を構築すべきである。」

 前半はいい。よく言った、と思う。一方で、後半は「休日に」と限定しているところが、典型的な「机上の空論」である。これなら、部活動を学校から完全に閉め出す方がまだ簡単だ。曜日や時間帯によって指導者が変わるというのはあり得ない。
 例えば、私は長く山岳部の顧問を務めていた。そこでは、平日にプランニングや目的地の研究、買い出しなどを行い、月に1度か2度、休日に山に行く。平日は教員が面倒を見、休日の引率は誰かに任せるなど不可能である。引率者にしてみれば、自分の同意できないような計画書に従って引率をする場面がある、ということになる。
 部活動の指導は、スーパーのレジや役所の窓口業務のように、決まり切った作業を憶えれば、誰といつ交代しても問題がないというものではない。部活動だけではない。人間同士の信頼関係や、作業の一貫性ということを考えた時、学校で行われていることの多くは、容易には交代が出来ないし、交代しようと思えば、そのための意思疎通(合意形成)に苦労することになる。答えのない問題が多いだけに、人と意見のすり合わせをするストレスは非常に大きい。時間外勤務だろうが何だろうが、自分でやってしまった方がいい、ということになる。
 というわけで、この指針を生かすことは難しい。また、大人が面倒を見ることになると、競技団体による見境のない指導による過熱以前の問題として、必ず責任問題が発生し、それによって指導(介入)は過剰となり、部活動の前提とされる生徒の「自主的、自発的な参加」は阻害されてしまう。世の中の大人が暇だから、子どもの指導を生きがいにする人間が現れ、いかにも子どものためにやっているという意識に酔いながら活動を過熱させていき、やがてはいろいろな問題が起こってくる。
 何かのきっかけがあるたびにいろいろ考えてみるのだが、どうしても、私が以前一般紙にも書いたとおり(→こちら)、大人が関わることを完全に止めるしかないのだ。