林原健氏を悼む

 10月15日の新聞で、林原健氏の訃報を見つけた。享年78歳。岡山市にある「林原」という会社の元社長である。「林原」という会社は、私くらいの年齢(50代後半)であれば「カバヤ」と言えば誰でも知っている。いわば「お菓子屋さん」である。粉飾決算が明らかになって、2011年に倒産したが、長瀬産業の子会社となって今も存在する。トレハロースと天然型インターフェロンの量産化に成功したことで有名だ。
 有名な話(?)、私はかつて20年近くにわたってC型肝炎を患っていた(→闘病記録)。その時、2度にわたってインターフェロンという薬のお世話になった。その時使ったインターフェロンは林原(薬としての販売は大塚製薬だったと思う)が作ったものではなかったが、自分の病気や薬についてあれこれ調べている時、中野不二男インターフェロン第五の奇跡 長野・岸田両博士と林原生物化学研究所の挑戦』(文藝春秋、1992年)という本を読んで、「林原」という会社と林原健氏について知った。25年ほど前のことである。大変立派な会社であり、社長であると感じ入った。本の半分より後では、ほとんど主人公となっている。
 氏は父親の急逝に伴い、まだ慶応大学在学中19歳の時に、第4代目の社長になった。もちろん、その時は名目的なものであったが、卒業後徐々にその手腕を発揮するようになる。本というものは、ことさらに登場人物を美化し、悪く書かない傾向があるのは確かだが、登場人物に魅力を感じることが執筆の動機になるわけだから、それは決して歪曲とか潤色といったものとは限らない。
 私が素晴らしいと思ったのは、「研究」についての考え方だ。例えば・・・

「私たちの会社は、10年やってもモノにならないかもしれない、というものにこそ取り組みたいんです。ずっとそういうことをやってきたし、これからもやってゆくつもりでおります。」
「うちの会社が、いまこうしてやっていけるのは、父の代からみんなが手掛けてきた糖の研究のおかげです。いくつもやってきた研究の、ほんの一部の結果が会社をささえているのです。」
「研究費は上限なしです。好きなようにやってください。結果が、いつモノになるとかならないとかなど、考えないで下さい。」
「10年も20年も先の市場で、どんなものが売れるかなど調査できるはずもない。市場調査など意味がない。そんなものはしなくてもいい。それよりも、しっかりと基礎研究をすすめることだ。」

 いずれも、健氏が30代前半だった1970年代半ば、京都府医大の岸田綱太郎氏の依頼により、インターフェロンの研究開発を引き受けようとしていた時の言葉である。私は、著者中野不二男氏がインターフェロンと林原をテーマにして本を書いた動機の重要な部分に、この考え方があると思っている。目先の利益に振り回されず、通説を排除し、根底から地道に研究を積み重ねることの大切さを説く話が、林原と関係のない部分も含めて、随所に見られるからである。
 氏が最終的に粉飾決算事件に関わり、会社を手放さざるを得なくなったことの背後に、どのような事情があったのかは知らない。インターフェロンに膨大な投資をしながら、その後、遺伝子組み換え型のインターフェロンが他社から発売されることで、競争力を失っていったこともあるかも知れない。会社を手放した後の健氏が、どのように時間を過ごしていたのかも知らない。
 ただ、彼が研究開発に費やしたお金と情熱は、確かに製品だけではなく大きな学術的成果をも生み、それが世の中をよくしたと思う。訃報を前に、久しぶりで『インターフェロン』にざっと目を通しながら、そんな氏の生涯に思いを致した。合掌。