フェイク?「毛主席の回想」(1)

 今月に入ってから、暇を見てはある本の書き写し、というよりも、書き起こしに取り組んでいた。
 冊子は、薄い和紙のような紙25枚を、和装本のように糸で袋とじにしたもので、表紙には「毛主席的回憶(=毛主席の回想)」と題が書かれ、そのすぐ下に「内部参攷 不要外伝(=内部参考資料、門外不出)」と書かれている。表紙の下部には発行者の名前として、「井崗山小学 毛沢東思想宣伝隊」、更にその下に「1966.12」と印刷されている。全て赤インク、ガリ版刷りで、貴重感満載だ。場所によっては印刷の状態が非常に悪く、文字を判読するのが難しいので、読もうと思えば、一度自分自身で書き起こす必要があった。
 今はもうないが、私が初めて北京を訪ねた1992年8月当時、有名な書画骨董品街「琉璃厰」と南新華街の交差点、南東の角に小さな古物屋がたくさん入った雑居ビルのようなものがあった。そこで私は毛沢東の白黒写真数枚と、この冊子とを買った。足して100元ほどだったと記憶する。決して安くはないが、貴重なものであれば高くはない。
 井崗山というのは、現在は通常「井岡山」と表記されるのだが、1927年9月に武装蜂起した毛沢東が、敗戦の末に逃げ込み、陣地とした場所である。共産党軍最初の根拠地であるとされる。残念ながら私は訪ねたことがないが、湖南省福建省の境にある大きな台地状の山らしい。一度頂上の平坦部に逃げ込むと、敵は山の周りを一周するのに1週間もかかるのに、自分たちは1日で東から西へ、北から南へと移動が出来、戦略上有利な高所から敵を攻撃することが出来る。しかも、農産物が豊かに実り、食糧確保が容易である。毛沢東は1918年にこの近くに旅行に来て、そこが素晴らしい隠れ家になることに気付いたという。毛は、1927年10月から1929年1月まで、この井岡山に立てこもり、軍の拡充に努めた。毛がここで育てた軍(紅軍第4軍)が核となって共産党軍が成長し、やがては中国革命の成功が実現したことを考えると、中華人民共和国にとっても歴史的に非常に重要な場所である。
 1966年というのは、文化大革命文革)が始まった年である。文革は、1965年に清華大学教授・呉晗が書いた歴史劇「海瑞罷官」を、姚文元が政権批判の寓意を含むと批判したことを発端とし、1966年8月の中央委員会から本格的に始まる。1966年12月と言えば、それからまだ4ヶ月しかたっていない。
 毛沢東ゆかりの地、井岡山の小学校で、文革開始後間もなく出版(と言うほどの部数が作られたとは思えない)されたとなれば、期待が高まるのは当然であろう。私がこの冊子を入手してから30年近くが経つが、その間、私は別のテーマ(昨年本になった冼星海)を追っていたので、「毛沢東はそのうち」と思いつつ、1行も読まないまま、茶封筒に入れて書架に突っ込んだままになっていたのである。
 さて、表紙を開けると、毛沢東の「お言葉」が印刷されている。次のページには中国共産党中央軍事委員会拡大会議の「関于加強軍隊政治思想工作的決議」の一節が引用され、その下には「代序(=序に代えて)」がある。執筆者は中国共産党の世界を誰よりも早く世界に発信したアメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーだ。執筆時期は1946年なのか1966年なのか判然としない。1966年と書いた後で、無理矢理6を4に直したように見える。「協商会議開幕後、陪都にて」とも書かれているから、党史を詳細に見れば分かるだろう。
 今、その手間を省くのは、それが分からなくてもあまり問題にならないからである。驚いたのは、スノーがいかにもこの「回想」を知っているかのような書き方をしていることだった。なんだか変な予感がした。
 いよいよ毛の回想に入る。どうも記憶にあるような気がする。毛の回想というのが何種類あるのかは知らないが、何度語っても人生そのものが変わるわけはないのだから、読んだことがあるような気になるのは当たり前である。
 早速、何と書いてあるのか分からない部分に出くわした。ああでもない、こうでもないと悩みながら、参考としてスノー『中国の赤い星』(筑摩書房)第4部「ある共産主義者の来歴」という毛の自伝を見てみることにした。そして気がついた。「毛主席的回憶」は「ある共産主義者の来歴」と同じ文章なのである。
 しかし、なにしろ「内部参攷 不要外伝」である。どこかが違っているはずだ、と思いながら、私は書き起こしを続けた。(続く)