フェイク?「毛主席の回想」(2)

 最後のページは、上3分の2は、1行おきに書いているのではないかと思うほど、上下のスペースがゆったりとしている。ところが、下3分の1は、それとは逆に、行間がないと言ってよいほどにつまった書き方になっている。行数にして12行だ。そのうち3行は、回想の最後の部分で、その後の9行は、『中国の赤い星』にはない部分である。最後の最後でついに、この冊子だけが載せる貴重な証言を見つけることが出来た!・・・私は溜飲を下げて喜んだ。
 それにしても読みにくい。さんざん苦労したあげく、どうやらその冒頭は「党が無敵であるもう一つの理由は~」と書かれているようだ。「もう一つの」が、『中国の赤い星』の「ある共産主義者の来歴」末尾の部分と、実にしっくり馴染む。だが、『中国の赤い星』にはない。だから私は、その9行を『中国の赤い星』では削除されたオリジナルの回想だと思ったのである。
 『中国の赤い星』は、原名が「Red star over China」である。エドガー・スノーは、1936年に西洋人ジャーナリストとして初めて陝北(陝西省北部)の解放区(共産党統治地区)に入り、毛沢東を始めとする要人たちにインタビューを行った。その成果であるこの本は、1937年10月にロンドンで、1938年1月にニューヨークで刊行された。中国では1938年3月に上海で出版されたが、その時の題は『西行漫記』であった。当時、共産党と的対していた国民党政権が、共産党をテーマにしたことが露骨に分かる本では、出版を許可しなかったからである。
 私は、現在中国で売られている『西行漫記』は手にしたことがあるが、1938年刊のものは見たことがない。果たしてそれが、オリジナルに忠実であるかどうかは怪しいところだ。スノーは共産党にとても好意的であり、共産主義者たちの姿を大変美しく描いている。それは、共産主義者を「共匪」と呼び、悪意に満ちた風聞を垂れ流すこともしばしばだった国民党にとって不都合な記述だ。あちらこちらにカットがあっても不思議ではない。
 もちろん、それらのカットは、(仮にカットがあったとしても)国民党にとってのみ不都合であって、むしろ共産党にとってはありがたい部分なわけだから、1949年以降に中国で刊行された『西行漫記』は、オリジナルに忠実であり、「ある共産主義者の来歴」が「内部参攷 不要外伝」である必要性などまるでなかったに違いない。ただ、現在、私は建国後に『西行漫記』の版が改められたかどうか、そもそも、『西行漫記』にどのような版が存在するのかを知らない。
 さて、せっかく久しぶりで『中国の赤い星』を手にしたのだからと思い、あちらこちらパラパラとページをめくっていたところ、本文、注、年表の後に、「毛沢東との会見」という部分があるのが目に止まった。その序と「訳者(松岡洋子氏)あとがき」によれば、1936年の会見記は、紙面の制約から全てを『中国の赤い星』に載せることが出来なかったが、割愛部分は1937年2月3、4、5日付けの『上海イブニングポスト・アンド・マーキュリー』に大部分を発表した上、1968年の増補改訂版に取り入れた。私の手元にある筑摩叢書『中国の赤い星』は、その邦訳版である。
 その「毛沢東との会見」の最後に、1936年7月25日保安で行われたインタビューの一部が納められている。その部分こそ、冊子の最後の9行である。つまり、最後の9行を除けば、私の冊子は『中国の赤い星』の「ある共産主義者の来歴」であり、そこに当初割愛していた部分を付け加えたものだということである。
 この付け加えた部分には明白な異同がある。毛はそこで、中国共産党が無敵である理由を幹部の有能さ(勇気と忠誠心)に求め、具体的な18人の名前を列挙している。冊子では、その内7人が割愛されている。その7人とは次の通りだ。

王明 洛甫 博古 彭徳懐 項英 陳雲 張国燾

 一方、『中国の赤い星』では連続している徐向前と陳昌浩の間に、冊子では「葦雲」あるいは「韋雲」という人物名が書かれている。心当たりのない名前である。「陳雲」のことではないか?と疑ってもみたが、配列の順番からしても、文字からしても無理が大きい。
 なぜこれら7人が割愛されたのか?それに答えるのはさほど難しくない。
 まず、博古(秦邦憲)、項英は、それぞれ1946年、1941年に死亡したからである。故人を書かないというのは、この回想が30年前のものではなく、最近のものであると見せかける意図を含んでいるようだ。
 王明(陳紹禹)、洛甫(張聞天)、彭徳懐は失脚したからである。王明はコミンテルンと強く結びついた留ソ派(ソ連への留学経験者)として、元々野人・毛沢東とウマが合わず、最終的に1942年の整風運動で力を失った。洛、彭は1958年の廬山会議で、大躍進運動の失敗を指摘して毛から干された。
 張国燾は脱党(共産党側からも除名)したからである。野心家で、権力への強い指向を持っていたが、戦略的な失敗を重ねることで地位を失っていき、1938年4月に脱党した。1966年当時は、亡命してカナダに滞在していた。
 そして陳雲。これは難しい。大躍進政策の失敗に気付き、鄧小平とともにその是正に取り組んではいたが、廬山会議にはおそらく出席して居らず、公の場で毛沢東を直接批判したりはしなかった。そのためか、文革が始まった時、中央委員会副主席の職は解任されたが、政治局常務委員のポストは維持した。つまり、毛から批判的な目で見られてはいたが、失脚というほどの事態には陥っていない。実に微妙である。「葦雲」の悩ましさもあり、陳雲の名前が削除されたのかどうかは判然としない。
 というわけで、結局のところ、秘蔵の冊子は基本的に全て『中国の赤い星(増補改訂版)』でその全てを見ることができるのだが、最後の部分で、人物名を挙げる際に、印刷された1966年12月の価値観が反映されている。だが、これはあまり大きな問題に思えない。この冊子がなくても、陳雲以外の6人については、不在や没落が明らかだからである。

 ああ、書き起こしに費やした時間は何だったんだろう?私はため息をつく。書かれていることは、さほどおかしくはないのだろうが(どんな自伝にも記憶違いや潤色は付きもの、この回想も同様の間違いを、同じような率で含んではいるはずだ、ということ)、私としては「内部参攷 不要外伝」にだまされた感じがする。なぜそんなことをわざわざ書いたのかは分からない。文革初期、果たしてこの回想が公開禁止というような事情があったのだろうか?その判断は、慎重に調べた上で下さなければならないだろうが、現時点における私の印象としては「だまされた」なのだ。