古典の誕生

 先々週、娘の通う学校でクラスターが発生し、娘も濃厚接触者に指定された都合で、2日間仕事を休まざるを得なかった話は既に書いた(→こちら)。その2日間、自分としてはあると思っていなかった不意の休暇である。しかも出歩けない。さて、この機会に何をしたものだろうか?と考えた。もちろん、自分自身のお勉強としてする読み書きの材料などいくらでもあるのだが、通常の休日と同じように使ったのではもったいないような気がしたのだ。
 そこで私は、昨年12月にバーンスタイン指揮のベートーベン第九の映像に感動して以来、心の中でバーンスタインブームが起こっているので、彼が指揮したマーラー交響曲を気が向いた順番にDVD映像で見直してみよう、と思った。途中、ふと気になって、グレン・グールドによるバッハの演奏(DVD)にも寄り道をし、自宅待機が解除になった後も含めて、ずいぶん多くの時間をテレビでの音楽鑑賞に費やした。見たのは、順番に次のとおりである。

 マーラー交響曲第9番→同第3番→第5番、第9番、「大地の歌」のリハーサル→第5番の第1楽章→第8番→バッハ「ゴールドベルク変奏曲」→同「パルティータ第4番」他→マーラー交響曲第1番→バッハ「フーガの技法」他→マーラー交響曲第5番と9番のリハーサル(再)→バッハ「ゴールドベルク変奏曲」(再)→マーラー交響曲第2番→同第5番(今度は全)

 何とびっくり、10日間で延々17時間以上に及ぶ。どの演奏も、バーンスタインやグールドの表情・動作も含めて魅力的(もしくは面白く)で、飽きるということがなかった(ただし、グールドの演奏はDVDよりCDの方が完成度が高い)。不意の自宅待機でもなければ、絶対に不可能な時間の使い方だった。しかも、この他に、遠路はるばる(?)仙台フィル定期演奏会に足を運んだ(→その時の記事)上、CDで、やはりバーンスタインの指揮(ニューヨークフィル)によるマーラー交響曲第1番と第5番を聴いた。いくら私でも、これほど音楽に浸ることはなかなかない。
 バーンスタインマーラー全集で、リハーサル映像を見たのは本当に久しぶりだった。昔見た時の印象はあまり憶えていないのだが、今回、バーンスタインがオーケストラを動かすために渾身の努力をしていることに感銘を受けた。まるで100の楽器を1人で演奏するだけのエネルギーを費やさなければ、100人のオーケストラは動かせない、とでもいうかのようだ。本当に全身で格闘している。バーンスタインほど声望大きく、ウィーンフィルとの付き合いも深い音楽家であれば、なにもここまでしなくてもオーケストラはバーンスタインの思いを実現すべく頑張るだろうに、と思った。解説によれば、第9番はリハーサルに3日をかけたそうである。このメンバー彼にしてそれだけの時間を費やさなければならない、あるいは、それだけの時間を費やす必要があると考える音楽の深さ・難しさというのは尋常ではない。
 古典の教員としての私の口癖は「いいものしか古くなれない」だ。12月に授業で、ヨーロッパでは楽譜を発明したことによって音が記録できるようになり、したがって200年前の音楽が古典として生き残ることになった、という話をした(→その時の記事)。その後、ひどく当たり前のことにふと気が付いた。記録ということが、古典が生まれるための絶対条件なのだとすれば、音そのものや映像を記録する方法が開発されると、演奏もまた古典になる可能性が生じるということに、である。例えば、バーンスタインやグールドの演奏は、100年後にも(人間が今の状態で生きていたら)売られているのではないだろうか?20世紀に生み出された大量の名演奏の中で、「古典」として生き残るものがあるとすれば、何を置いてもこの2人のものだろう。私はそう信じる。
 演奏だけではなく、バーンスタインの知的でオープンな感じの風貌と正確で表現力豊かな指揮ぶりも非常に魅力的だ(グールドは映像的にはただの変人。あの人間離れした演奏が、本当に生身の人間から生み出されているという証明としての価値はある)。もちろん、彼の生み出す演奏の素晴らしさを抜きにして、風貌や動作が古典化するというのはあり得ない話で、演奏が素晴らしいからこそ、その創造の姿もまた価値を持つということなのだけれども・・・。