個人の責任と社会の責任・・・ある死刑囚について

 1月12日の毎日新聞に「死刑囚生んだ過酷な虐待」という大きく、衝撃的な記事が載った。リサ・モンゴメリーという女性死刑囚(52歳)についての記事である。
 それによれば、リサは2004年、妊娠8ヶ月の女性を殺害した罪で2007年に死刑が確定した。逮捕された時、リサは殺した女性のお腹を割いて取り出した胎児を、ソファに座ってあやしていたという。ここだけ見れば、猟奇的な事件、と言っていい。
 問題なのは、彼女の成育歴だ。父親は幼少期に家出して不在。アル中の母親から殴るなどの虐待を受け、初めて口にした言葉が「たたかないで。痛いよ」だったという。姉は8歳から母親の交際相手にレイプされ、3歳のリサはそれを隣で見ていた。11歳からはリサ自身が、継父からレイプと暴行をされるようになる。母親はやがて、家の修理代金等の代わりにリサを作業員たちに差し出すようになった。これらの末の殺人である。おそらく、妊婦を殺害して胎児を取り出し、抱いていたのは、自分の子を産み育てるという平凡な幸せに対する強い憧れが、異常な精神によってゆがんだ形を取ったものだろう。
 これは気の毒だ。少なくとも、私は彼女を責める気にならない。まるで嫌な思いをするためだけに生まれ、生きてきたようなものではないか。何も殺さなくてもいいだろう。とりあえずは刑務所で、誰からもいじめられない生活をさせてあげればいい。
 ところが、トランプ元大統領は、連邦レベルで17年間停止されてきた死刑の執行を再開し、その対象の1人として彼女を選んだのだという。何とかならないのかなぁ、と、まるで自分自身が死刑囚になったような気分でじりじりとしていたところ、そのわずか2日後に、彼女の刑が執行されたという記事が出た。連邦レベルで女性の死刑が執行されたのは67年ぶり、死刑制度の廃止を公約としているバイデン大統領の就任まで7日だったなどという話を聞くと、なおのこと、何ともやるせない思いにとらわれる。
 これは、果たして私たちというのはどこまでが私たちなのか、という問題である。つまり、私という1人の人間は、親から遺伝的要素を受け継ぐと共に、親を始めとする様々な社会的影響を受けながら成長する。まともな大人になるかどうかという点において、本当に私自身の責任は何割あるのか?親はどうなのか?学校はどうなのか?隣近所の人たちはどうなのか?・・・こういったことを考えてくると、なかなか「悪」をその人だけの責任にすることは難しい。しかも、リサのようにほとんど生まれた瞬間から尋常でない虐待を受け続けた人であれば、なおさらである。
 今の日本でも「自己責任」ということがよく言われる。「自己責任」を言う代わりに自由にさせてくれるなら、それはそれでいいような気もするが、大切な点はそんなところにはない。自己責任によって社会保障の不備を棚上げにしようとするのが問題なのだ。
 確かに、個人の責任を問わず、社会が問題のある人に際限なく手を差し伸べれば、人々の甘えを生み、人々を堕落へと導くことになるかも知れない。だが、全てを個人の責任にしてしまえば、人間が何から何まで不公平に出来ている以上、格差は絶望的に拡大し、下層は搾取と弾圧とに喘ぐことになるだろう。そのバランスを取るのが難しい。
 一番いいのは、各個人は「自己責任」を肝に銘じ、社会は「手厚い社会保障」を目指すことだ。そうすれば、人々の堕落も、過酷な競争環境も発生しない。人間は、うまくいかない原因を自分の外に求めてしまうと努力しなくなる、そういう生き物だから、みんなが自分自身に原因を求めることが大切なのだ。
 とは言え、それは所謂「きれいごと」。現実の人間はそれでうまく生活できるようには出来ていない。私にも、個人と社会の折り合いの付け方について、名案があるわけではない。だからこそ、せめて死刑を廃止すればいい。そんな不幸な人を、生涯に渡って刑務所で生活させたって、国としてどれだけの負担になるわけでもない。少なくとも、アベノマスクにかかった費用だけで、向こう数百年くらいは、本来死刑になるような人たちの生活をまかなえるだろう。その中で、どんな個人と社会との関係を作っていけるか、みんなでじっくり考えればいいのだ。