亀淵迪『物理村の風景』

 1月の何日だったか、朝日新聞の書評頁で見つけて、亀淵迪(かめふちすすむ)著『物理村の風景』(日本評論社、2020年11月)というエッセイ集を買い、この4日間、通勤の電車(往復で1時間半)の中で読んでいた。わずか300頁の、何の晦渋さもない素直な文体のエッセイに、これだけ時間をかけたのは、速読派の私としては異例のことである。
 たかだかエッセイ集1冊に3000円も費やしたというのも前例がない(と思う)。300頁のエッセイ集としては、相当高額の部類に入るであろう。しかも、私は最近、本を置く場所に困っており、学術用の本以外はできるだけ買わないようにしているのである。
 では、なぜ私がこの本に異例の扱いをしたかと言えば、著者に思い入れがあったからである。亀淵迪氏は、1927年に石川県で生まれた理論物理学者である。私は、氏がその方面でいかなる業績を上げた方かは知らない。私にとっての亀淵氏は「ヴォスの『駅長さん』」の作者である。すると、このブログを読んでいる私の教え子の中には、思い当たる人もいるかも知れない。
 「ヴォスの『駅長さん』」は、岩波書店『図書』1999年3月号に掲載されたエッセイで、私が大変気に入っているものである。作者がセミナーの講師としてノルウェーを訪ねた際、フィヨルド見物のために寄り道をしたヴォスの町で、バスに乗り遅れた時、「駅長さん」に親切にしてもらった。その「駅長さん」と36年間に及ぶクリスマスカードのやり取りを続けた後、作者はヴォスを再訪し、「駅長さん」との再会を果たす。ところが、その時に「駅長さん」の正体を知り、びっくり仰天・・・というようなお話だ(『物理村の風景』にも収められている)。なんとも心温まるお話が、柔らかく自然な筆致で実に上手く書かれている。

「別れた後私たち(平居注:夫人同伴)は、えも言われぬ、ほのぼのとした気分になっていた。そして、こういうことがあるから人生は楽しいのだ、と思った。そのままホテルに入るのは惜しいので、湖畔のベンチに腰をおろし、暮れやらぬ白夜の湖をいとおしんでいた。」

 作者のこの感慨を、読者も共有できる。亀淵氏の文章はそのように書いてある。
 私は学級通信の裏面に、必ず新聞記事や本の一節を印刷しておくのだが、生徒が変わるたびに少なくとも3回、このエッセイを取り上げた(今の「学年だより」ではまだ取り上げていない)。だからこそ、あの亀淵さんの随筆なら読みたい、私は切にそう思って、仙台に行ったついでに書店でこの本を探したのである。
 期待が裏切られることはなかった。心の余裕、幅広く深い教養、温和で上品な人柄、それらが本の隅から隅まで充満している。加えてユーモア(「ホントにホントの話」はその代表作!)。名古屋大学坂田昌一氏に師事し、デンマークニールス・ボーア研究所、ロンドン大学インペリアルカレッジでのべ7年間研究を重ねた後、朝永振一郎氏の後を継いで東京教育大学の教授になったという経歴から見るに、理論物理学者として超一流の方なのであろう。その一方で、ほとんど毎年、ザルツブルグ音楽祭、バイロイト音楽祭に足を運び、ロンドンでは音楽だけでなく、シェイクスピアのお芝居にも通う。
 作者の奥行きのある教養は、おそらく時代が作り出したものでもある。特に大きかったのは、青春を旧制高校(金沢の四高)で過ごしたことと、日本における素粒子物理学の最盛期に、湯川秀樹朝永振一郎坂田昌一といった「科学者」と言うよりも「文化人」と言った方が正しいような人々から薫陶を受けたことだろう。
 『物理村の風景』に収められたエッセイの中に、「文人墨客の交わり-秀樹と宇吉郎」という佳作がある。言うまでもなく秀樹は湯川秀樹氏、宇吉郎は中谷宇吉郎氏である。湯川氏は作者の学問上の師であり、中谷氏は郷土=母校(旧制小松中学、四高)の先輩である。広く言えば同じく物理学者であったが、湯川氏は素粒子、中谷氏は雪が研究対象だったから、決して学問上の結びつきがあったわけではない。しかし、この2人は仲が良かったらしい。専門を異にする2人の不思議な結びつきの理由を、作者は次のように分析する。

「2人は超弩級の文化人であり、物理学を学問の一部として、それを外から客観的に眺めることができた。そこでは専門の違いなど、全く問題とならない。さらに、筆者がよりよく知る秀樹を中心にして言うならば、彼は何事にも強い好奇心を示し、しかもそれについて、常識に全くとらわれない、大胆で独創的な見解を述べるのが常であった。それ故、宇吉郎のもち出すどのような話題に対しても、秀樹はきっと身を乗り出して応じたことであろう。ここで秀樹と宇吉郎、両者の立場を置き換えたとしても、事情は殆ど同じだったことであろう。」

 そして、彼らをこのように描くことができる亀淵氏もまた、秀樹・宇吉郎と同じ世界の住人だったに違いないのである。亀淵氏が気の置けない友人と閑談をする場所の隣に座り、美味しいお酒を飲みながらぼんやりと彼らの話を聞いていたりできたら、ひどく幸せな気分になれるだろうなぁ、と思う。それができない代わりに、私はこの本を書架に置いて、時折ページをめくることになるのだろう。

 

(補)参考までに、この本には「人・物理・巨人・追想をちりばめた宝石箱」と副題のようなものが付いており、帯には「朝永振一郎に傾倒し、湯川秀樹、ボーア、ラッセルら巨人の謦咳に接した著者が織りなす四采の衣」と書かれている。