男の子のくせに・・・

 朝起きたら、うっすらと雪が積もっていて驚いた。思えば、昨日はちょうど天気予報の時間に、首相のぶら下がり会見で番組が中断されてしまったため、天気予報が見られなかったのだ。夜中に雪が降るかも知れない、などという予報だったのかな?
 珍しいことに、我が家の庭にジョウビタキが来た。しかも、朝と昼過ぎと2回もである。腹部の柿色が美しく、ぷっくらと丸っこい姿もかわいい。
 快晴なので、日が昇るに従い、雪はあっという間に溶けた。そして一日中、海が本当に真っ青に見えていた。気温が低いため、冬らしく空気が澄んでいることもあって、最高に美しい一日だった。午前中は牧山に走りに行く。カモシカはいなかった。

 

 ところで、東京オリ・パラ組織委員会の森会長が「女性蔑視」発言をして以来、男女平等や、女性の社会参加についての意見・記事を目にすることが多い。決して悪いことではないのだが、すこしわざとらしい、取って付けたような動きも多いように思う。少し余計なことを書いておこう。
 男と女は違う。体の構造が違うことは、外形に表れているので分かりやすい。そこから始まって、男と女にはいろいろな違いがあるのだろうが、どれが構造的違いに基づくもので、どれが社会的なものなのかはまったく判然としない。だからこそ、両者の違いをどのように認め、どのように扱いを変えるかが「区別」になったり「差別」になったりする。どちらにもなり得る部分というのが、それなりにあるのではないか?
 高校という場所で、多くの生徒と接していて思うのは、女子が元気で真面目でしっかりしているのに対して、男子には覇気のない、ぐうたらな生徒が多いということである。提出物のチェックや試験答案の採点をしていると、男子のものから女子のものに変わったとたん、ほっとする。汚い字で面倒くさそうに書かれた出来の悪いものから、明晰な字で書かれた生真面目なものに切り替わるからだ。成績も明らかに女子の方がいい。
 教室の中でも、休み時間に教室をのぞくと、女の子がストーブのまわりで楽しそうにしている一方で、男子は廊下やベランダでたむろしていたりする。その他、日常生活を見ていて、同じ男として情けないと思わされる場面が多い。同じ高校入試で、極めて公平に、性別さえ分からない状態で合格を決められて入学してきた生徒たちなのに、どうしてこんなに違うんだろう、とよく思う。女子の方が男子より早熟だ、というのはよく聞く話で、これは体の構造差に基づくことが比較的確かな話だと思うが、小中学校ならともかく、高校3年生でもそれが通用するのだろうか?
 前任校で進路指導の担当をしていた時、いろいろな会社の人から「女子でもいい」、いやそれどころか「女子が欲しい」とよく言われた。それが、販売や事務ではなく、一昔前なら絶対に女子を取ってはくれなかったであろう建築・土木や水産(加工ではなく仲卸など)といった業種でもなのだ。なぜかと尋ねれば、たいてい「女子の方が根性がある」という答えが返ってきた。
 そこで私が思うのは、生物学的に男よりも女の方が元々強くできていて、男女平等を徹底すると男は女に食われてしまうのではないか、つまり、「男のくせに」とか「男の子なんだから」と持ち上げ、叱咤激励していて、かろうじて男は女と対等に生きていけるのではないか、ということだ。「男尊女卑」の時代でも、表向きは「お父さん」を立てながら、実は「かかあ天下」ということがあったような気がする。「お父さん」は「お母さん」というお釈迦様の手のひらの上の悟空というわけだ。今の子どもたちは、「平等」に育てられてきているために、女が上、男が下であることがはっきりしてしまったのではないか。
 私のこんな仮説が正しいかどうかは知らない。男女平等、ジェンダーフリーを声高に唱える人にとっては、実にケシカランという話に違いない。だが、男と女は絶対に違うのであり、その違いの見極めを誤ると、それはそれでゆがんだ男女関係を作り出す。「平等」は、結果の「平等」を目指すと簡単ではない。昨今の状況を見ていて、私は少し心配するのである。