寂しくも嬉しい卒業式

(3月2日付「学年だより№83」より)


 3月になった。もちろん、古称で「弥生」と言う。元々は「いやおひ」と読んだらしい。「塩釜高校の弥栄(いやさか)を祈念して万歳三唱!」などとも言う通り、「弥」は「ますます」の意味だから、「弥生」は「(植物が)ますます生長する」季節だ、ということになる。
 ところで、私が「古典」の授業に行っている3組と9組では少し話したことがあるのだが、せっかくなので全体に向かって書いておこう。日本には「相生」(兵庫県)という地名と、「相老」(群馬県)という地名がある。読み方はどちらも「あいおい」と読むが、ある時、ちょっとした事情で、歴史的仮名遣いだと、前者は「あひおひ」、後者は「あひおい」であることに気付いた。そうか、「生ふ」はハ行活用、「老ゆ」はヤ行活用なのだ。これは、私にとってなかなか感動的な発見だった。
 と言うのも、ヤ行活用の動詞というのは必ず「自発(自然に~なる)」の意味を含む。逆に言えば、ヤ行以外で活用する動詞は、能動的な意志に支えられる。つまり、自分がどう逆らっても自然に年は取るものだが、生長(成長)は積極的に何かをしなければ実現しないということである。自分を伸ばすための努力をしない人にとって、時間の経過はただの「老化」であって「成長」ではないのだな。心しなければ・・・。

(えっ!?もう1年・・・?)
 去年の今日が何の日だったか憶えているだろうか?そう、3ヶ月のコロナ休校に入った日である。その3ヶ月間、宮城県で感染者が出た日がたったの26日。つまり休校期間の3分の2以上はゼロだったわけだから、今から見れば、あの休校っていったい何だったの?というような話だ。時代は常に、先の見えない状態でがむしゃらに生み出され、終わった後の評価によって「歴史」となる。コロナのドタバタは今も進行形だが、果たして何年か後に、私たちはそれをどのように描くのだろうか?

 


【祝卒業!・・・諸君の時代の始まり】

 昨年の卒業式は放送だった。今年は、在校生・保護者の出席こそなかったが、体育館で実施できてよかった(ブログ用の注:保護者向けにライブ配信あり)。私は「誘導」という名ばかりの係で、特にすることもなく、式場に入る卒業生をコモンホールあたりで見守っていた。入場を待つ生徒が、「これって本当に本番?」などと言っているのを見ながら、緊張感のない式になりそうだなぁ、と思っていたのだが、いざ始まってみると、立派な式になった。先生の側に、「どうせ保護者もいないし」というような雰囲気が微塵もなく、保護者・来賓がいる時と同様、何から何まで本気でやっていたからなのだろう。
 塩高に対する愛着なのか、友達や先生が名残惜しいのか、式が終わってから3時間経っても、昇降口付近からは生徒の姿が消えなかった。やっぱりいいものだな・・・卒業式。
 さて、諸君はまだ(3年生への進級も決まっていない=笑)2年生ではあるが、これで「最上級生」になった。その自覚に立って、きちんとした高校生活を送って欲しい。頼むよ。