内政問題と国際問題

 最近に始まった話ではないが、中国と日米との関係がますますよろしくない。日米は香港やウイグルの人権問題を持ち出して、中国政府の姿勢を批判する。加えて、尖閣諸島南シナ海の領有権問題だ。今年に入ってから、アメリカが空母「セオドア・ルーズベルト」を南シナ海に派遣するようになったと思ったら、今月になってからは、やはりアメリカのイージス艦が中国の空母「遼寧」と並走したことがニュースになる、といった具合で、甚だ穏やかでない。ミャンマーを巡っても、両者は激しい駆け引きを繰り広げているが、そこでもミャンマーの内政をどのようにとらえ、アプローチするかということが、重要な鍵になっている。
 国内での出来事に対して、他国はどこまで口を挟むことが可能なのだろうか?これは古くて新しい問題だ。しかし、必ずこうすべきだという明確な答えが出ているわけではない。
 私でも知っているくらいだから、おそらく有名な判例なのだと思うが、「富山大学事件」というのがあった。事件(?)が起こったのは1966年、最高裁判決が出たのが1977年のことなので、ずいぶん古い話だ。ごくごく簡単に言うと、富山大学で自分の単位が認定されなかったのは不当だという学生の訴えに対して、大学の内部問題だとしてそれを退けた、というものである。
 私が憲法問題を考える時によく使う司法試験の参考書『伊藤真 試験対策講座 憲法』(弘文堂、1998年)によれば、単位認定は純粋な内部問題なので司法の判断に馴染まないが、それが卒業認定となると市民社会と接点を有するが為に、司法判断の対象となり得るのだそうだ。
 内部問題というのは難しい。最近よく問題になるのは、DVやその一種である児童虐待だ。親には子どもを育てる義務と権利がある。どのような思想で育てるかについて、親の裁量権は大きい。世の中には、子どもを餓死させるといった信じられないような親がいる。誰だって、そうなりそうな子どもがいたら守ってあげたいと思う。だが、それは極端な例であって、様々な事例を考えると、グレーの場合も多いだろう。その場合、不幸な子どもを作らないために、外部の人間や組織が介入するとして、いったいどこまでそれが許されるのか?一歩間違えば過干渉(余計なお世話)となり、家庭内の問題に「公」が介入することを際限なく許すことになってしまう。もちろん「公」でも「完全に正しい」などということはあるわけがないから、その干渉は、量だけでなく、内容においても不当なものとなり得る。
 「内部」にいかなる問題があろうとも、その問題は内部の人間が苦労しながら解決させていくしかない。そうしなければ、人は賢くも強くもなることができず、長い目で見た時には、更に大きな問題を生むのではないか?フランス革命で血を流したことで、フランス人は自由と平等の大切さをよく理解し、リベラルな精神を身につけた、とはよく言われることである。誰かがフランスの混乱に介入し、ていたら、果たしてフランス人はリベラルな精神を手に入れていただろうか?
 これを国際問題に当てはめるとどうなるか?日米は、中国が主張するとおり、ウイグルや香港にいかなる問題があろうとも、あまり口を挟まない方がいいのではないか?一方、決して内部問題ではあり得ない南シナ海などは、厳しく中国の問題点を指摘し、覇権を排除できるようにすべきだ、ということである。そここそが肝心なのであって、内政問題に口を挟んでぎくしゃくし、他の外交問題で議論さえ始められないような状態になるのはよいことではない。
 そもそも、民主主義が唯一絶対のシステムだということはない。ぐだぐだと手続きに手間ばかりかかり、あげく平均値のような結論しか出せない。それが国民の質を反映させる民主主義だ。優れた独裁者が、独断専行で政治をした方がはるかにいい。しかし、実際には優れた人間が独裁者になる可能性は非常に低く、また、民主的システムを持たない組織では、悪い人間が独裁者になるという最悪の事態に陥った時に、それを回復させる手段が暴力以外にはない。それなら、手間がかかって、ほどほどな結論しか出せないにしても、みんなで決めたんだから仕方ないとあきらめやすいという点で、民主主義の方がいいということになる。もしかすると、民主主義なんてその程度のものなのかも知れない。