青春デンデケデケデケ

 昨日は、我が家の近所のライブハウス「ラ・ストラーダ」で月に一度開かれる、音楽映画会であった。今回は「青春デンデケデケデケ」(大林宣彦監督、1992年。舞台は香川県観音寺市)。ネットで見ることができる観音寺市の広報誌(2020年10月号)によれば、映画と同名の原作は、芦原すなお氏が、自分の高校時代に友人たちがやっていたバンドをモデルにして書いたものらしい(直木賞受賞)。音楽映画と言うよりは、明らかに青春映画である。
 とても感動した。もしかすると、私が今までに見た日本映画の中で最も心動かされた作品かも知れない。夢中になって見ていて、途中、少し我に返った時、自分がどこにいるのかが分からなかったほどである。15時から始まった映画が、17:15に終わり、自宅に戻った後、特別することがあったわけでもないのに、昨日のうちにこの映画についての感想を書かなかったのは、少しでも冷静に自分の感動の正体を見極めようとしていたからである。丸1日が経って、それができるようになったというわけではない。しかし、これ以上時間が経つと、今度はそれによって失われるものも大きいような気がするので、とりあえず書いておこうか、と思っただけの話である。
 前回(→こちら)も書いたとおり、私は昔からロックという音楽が好きではない。音楽の中でもっとも苦手なジャンルと言ってもよいだろう。それはただのストレス発散。社会に適応できずにドロップアウトした(しかかっている)人間が、自分の怠惰や未熟を棚に上げて、世の中に対して駄々をこねているようにしか思えない。社会批判などという立派なものではなく、正にただの駄々であり現実逃避である。
 ところが、この映画の中に出てくるロック狂いの高校生たちは、そんな感じが全然しない。ロックバンドに付きものの退廃的な雰囲気など微塵もなく、身なりもきれいで、礼儀正しく、家庭でも学校でも良識ある行動を取る。なんとも健康で若々しい好青年たちだ。
 映画が作られたのは1992年だが、舞台は1965~68年の高校である。私(1978年高校入学)よりほぼ一回り上の世代だが、その後の時代に比べれば、世の中の変化がまだ緩やかだったのだろう。描かれている情景は私の高校時代とほとんど違わない。当たり前のことだが、誰一人スマホを握りしめ、イヤホンを付けていたりはしない。どこにいてもスマホを握りしめた人の姿から逃れられない今、それだけでも胸のすくような清々しさだ。人間関係はとことんリアルで、大人と高校生との間には適度な距離があり、大人の過干渉も高校生の甘えも感じない。それでいて、大人は高校生を暖かく見つめ、高校生は大人に信頼と敬意を抱いている。
 映画が終わって以来、私が自問していたのは、私が映画の中の世界を心底美しいと思ったのは、ノスタルジーなのだろうか?それとも描かれていたものが本当の意味で美しかったのだろうか?という問題だ。
 現時点での私の思いは後者である。更に私が思うのは、なぜそのような世界が失われてしまったのか、ということである。いつも思うのだが、人間が文明を手に入れることは原始の姿から離れるということで、それは進歩であると同時に堕落だ。かと言って、文明を全否定することは、さすがの私でもできないし、そもそもそのような状態をイメージできない。では、どこまでなら文明が許容されるのか?それがせいぜい、この映画に描かれた1960年代までなのではないか、という気がする。
 逆の言い方をすれば、1960年代日本の文明度でも、生活は十分便利になっていた。高校生がエレキギターを持てたわけだから、かなりのぜいたくが可能になっていたと言ってよいだろう。それでいて、人と人との関係は「密」である。これは、人が助け合わなければ生きて行けなかったことを意味するかも知れない。今は仮の豊かさの中で、表面的な当たり障りのない人間関係を維持する傾向が強いと感じる。映画の中には、それと正反対の人間関係がある。
 原作の小説にしても、映画にしても、しょせんは虚構なわけだから、映画の中の世界を本物と思うのは禁物だ。だが、願望でも、夢想でもいいではないか。今の世が失ってしまったものを確かめ、今を生きる人に憧れを抱かせることができれば、それは世の中を浄化する力になるだろうから。・・・と書いてきて、ふと気になったことがある。今の高校生がこの映画を見たら、彼らは何を思うのであろうか?