暴走する傲慢

 一昨日、中国共産党が建党100周年を迎え、天安門広場で大々的な式典が開かれた。そこで行われた共産党総書記・習近平の演説については様々な論評が為されていて、今更私が付け加えることなどありそうにないが、近現代中国研究の末席に座る者として、感想を少しだけ書いておく。
 新聞によって報道には大きな温度差があったが、圧倒的に詳しいのは日経であった。習近平演説など、要旨だけで3分の2面を使っている。わずか7300字の演説だというから、要旨ではなく全文なのではないかと思ったほどだ。漢字だけの7300字は、日本語に訳すとかなり増えるはずだから、確かに「要旨」なのだろう。
 それを読んで、最初に目に止まったのは、歴代の共産党指導者として最初に名前を挙げているのが、毛沢東、鄧小平、江沢民胡錦濤だということである。次に毛沢東周恩来劉少奇朱徳、鄧小平、陳雲を挙げるが、前者には「中華民族の偉大な復興のために、歴史書を光り輝かせる偉大な功績を挙げた。私たちは彼らに崇高なる敬意を捧げる」とし、後者には「上の世代の革命家を深くしのぶ」とだけする。どうも、前者の方が格が上だ。毛沢東は別格。鄧小平は改革開放路線で、資本主義的な経済発展へと舵を切った指導者として外せないとして、なぜ次が江沢民胡錦濤なのだろう?もちろん、彼らのしたことが、習近平の意にかなうものだからである。彼らのしたこととは、演説でも言うとおり、愛国主義ナショナリズム政策の推進である。
 共産党とは、元々、社会格差の是正、ひとつまみの資本家が他の圧倒的多数の労働者を搾取して肥え太っている状態、社会の底辺が食うことさえままならない状態を改善することが使命の政党だった。経済発展を実現させ、本来の使命が存在しなくなった時、それに変わる使命を設定しなければ党が成り立たない。そこで見出されたのがナショナリズムであった。私はそのように理解している。このナショナリズムは、古い言葉で言えば中華思想である。
 習近平は、アメリカを中心とする自由主義諸国に対して、「『教師』のような偉そうな説教を受け入れることは出来ない」と語る。半分は正しく、半分は正しくない。先日、一度書いたとおり(→こちら)、いくら私たちの価値観と相容れないことでも、純粋な国内問題については干渉しない方がいい。それを中国が不当と感じ、反発するのは仕方のないことだ。一方、環境問題に象徴されるように、影響が他国に及ぶことについてそう言うことは独善であり傲慢である。
 例えば、チベット、新疆、香港における人権問題は、内政問題と言っていいだろう。他国がとやかく言うなという声を尊重することにしよう。しかし、南シナ海における「九段線」問題などは、内政問題ではあり得ない。ここで中国が、九段線は正当自明だとし、それへの抗議を内政干渉だとしてしまうことは、わがまま以外の何ものでもない。
 演説では軍事力の強化も繰り返された。更に、台湾問題である。「台湾問題を解決し、祖国の完全な統一を実現することは、中国共産党の変わらぬ歴史的任務であり、中華の人々全体の共通の願いだ」と語るのは非常に危険だ。今の台湾政府(=国民)が、中国への帰属に合意するなどあり得ない。香港の「一国二制度」が上手くいっていればまだしも、中国政府がそんな約束など守る気がないことが証明されてしまった以上、条件付き帰属もないだろう。すると、台湾を併合してひとつの中国を実現させるとは、武力によってしかなされ得ない。当然、台湾は抵抗するし、アメリカがそれを座視することもない。世界の平和にとって脅威である。
 演説では、「歴史」という言葉も繰り返された。特に「歴史を教訓とし、未来を切り開く」というフレーズは繰り返される。それが、「歴史を教訓とし、未来を切り開くには、国防と軍隊の近代化を加速しなければならない」、「歴史を教訓とし、未来を切り開くには、多くの新しい特徴を持つ偉大な闘争が必要となる」と語られ、台湾問題と重ね合わされる時、不安は更に大きくなる。過去が自ずから歴史になるわけではない。歴史は現在の人間が作るものである。過去のどのような事実を選択するかによって、いかなる歴史をも作り得る。ひとたび「歴史」として認められると、それが正当化の根拠となる。毛沢東はかつて、軍事指導を開始する直前に「鉄砲が政権を作る」と語った。習近平政権は、おそらくそれを歴史とし、自らの後ろ盾とする。
 世の中というのは何と難しいことか、と思う。孟子は「恒産なければ恒心なし」と言った。現代流に言えば、経済の安定がなければ民心も安定しない、ということになるだろうか。逆に言えば、これは、経済が安定すれば民心は落ち着く、ということでもある。
 現在の世の中は、日本にしても、アメリカにしても、中国にしても、人が生きていくのに十二分の経済的豊かさと安定がある。にもかかわらず、こうして争いが絶えないことは、孟子も想定外だったのではないか?そこには、人間が「知足(足ることを知る)」という徳を自ずから持っているかどうかについての認識の甘さがある。今回の習近平演説を読んでいても、どうやら人間には「知足」という徳が欠けているようだ。
 現在の武力は、人間が扱うにはあまりにも強大になりすぎている。パワーバランスを維持するための虚仮威しとしてならまだしも、行使すれば人類の破滅につながるほどだ。そんなことを思う時、今の中国はあまりにも危険である。