炎のジプシーブラス

 久しぶりに青空を見たような気がする。空だけでなく、心も晴れるような気がする。いいものだ。それもあって、久しぶりに牧山(→解説こちら)に行った。実に1ヶ月ぶりのことである。この間、走るために1時間半あまりの時間を取ることが難しかったり、天候の関係で足場が悪そうだったり(何しろ山道!)で、行くことができなかったのである。
 昨日、けっこうまとまった雨が降ったので、息子=中学校の運動会も延期になった。当然、山は最悪のコンディションであることが予想できた。かまわない。今日はランニングシューズではなく、新品の登山靴を慣らすために行ったのだから。登山靴で登り口までバタバタ走っていくわけにもいかないので、自転車のかごに登山靴を入れ、上り口で履き替えて頂上を往復した。久しぶりの牧山は、やはりいいものだ。
 コロナのドタバタなどあり、一昨年の南アルプス以来、山らしい山に行っていない。そして今月末、久々に気合いを入れて山に行くことにしたのだが・・・、目的地は内緒。お楽しみに。

 さて、午後は、最近恒例となった「ラ・ストラーダ」の音楽映画上映会に行った。今日の演目は「炎のジプシー・ブラス 地図にない村から」(ラルフ・マルシャレック監督、ドイツ、2002年)。
 ルーマニアにある人口400人の寒村で、地元の男たち12人(公演では踊りの女が2人加わる)がやっているブラスバンド「ファンファーレ・チョカリーア」が主人公。ヘンリーというドイツ人の若者が、偶然聴いて惚れ込み、世界に向かってこのバンドを売り出し、公演を行うというものだ。何しろ「地図にない村」だから、村に名前もないのだろう。あるいは「チョカリーア」が村の名前なのかも知れない。彼らの世界公演は、日本にも及び、その時の様子も映し出される。
 私はジプシー(ロマ)の音楽も好きだ。我が家にもラースロー・ベルキやタラフ・ドゥ・ハイドゥークスのCDがある。しかし、ジプシー音楽のブラスバンドがあるとは知らなかった。ラ・ストラーダの経営者から、楽しい映画だと聞いていたし、期待満々で足を運んだ。
 残念ながら、期待が大きいとがっかりも大きい。これなら、同じジプシー音楽映画でも「ラッチョ・ドローム」が勝ちだな、と思った。
 何と言っても、音楽が断片化されてしまっている。その結果なのか、「炎の」はただの騒々しいドタバタだ。ドイツ人が惚れ込んで世界に売り出そうとするくらいだったら、最初に彼がこの楽団の演奏を目の当たりにした時の情景を、映画の冒頭に持ってくればよかったのだ。その時の衝撃を表現することこそが、この楽団の魅力を最も雄弁に語っただろう。あるいは、変に物語など作ろうとせず、彼らの公演をできるだけ完全な形で映像化すればよかったのだ。
 その後の、ドイツ人とこの楽団との関わりや、海外公演をめぐるドタバタも、今ひとつドラマになりきれていない。冒頭で、1人の少年が湖の中からひどく壊れた楽器(ワーグナーテューバ?)を拾い、それを村の体が不自由な老職人が直す。直った楽器を持った少年が、自分も楽器を持っているから楽団に入れて欲しいと、楽団を追う。こんなストーリーも、映画全体にかぶせられて、楽団に後継者が生まれたことを伝えようとしているのだろうが、これまた効果的でない。世界各地における公演のセッティングをすると同時に、楽団のマネージャーとなり、移動のバスの運転手まで務める2人のドイツ人は、この楽団の踊り子と結婚し、子どもをもうける。楽団に付き添いながら、その子どもの世話をする様子が、いかにも「ひも」の生き様を描いているみたいで、これまた違和感がある。
 私にとって最も印象的だったのは、音楽よりも、ルーマニアの貧しい農村の情景であった。自然の景観としては美しい。だが、村に舗装された道路はなく、ひどくぬかるんでいる。村人たちはいつも、足回りがみんな泥だらけだ。風景も人々も素朴でいいが、あの泥だらけの道路を歩きたいとは思わない。魅力はこのような貧しさと表裏一体なのだ。魅力の部分にだけ目を向けて、自然を礼賛するのは身勝手だ。そう言われているような気がした。
 私もCDを持っているが、かつて「ブルガリアン・ボイス」というのが脚光を浴びたことがある。ブルガリアの農村の、ごく普通のおばさんたちの合唱らしいのだが、これは本当にスゴいアンサンブルだ。また、私はかつてメキシコのオアハカで、町の人々によるマリンバ合奏を聴いて興奮し、今回の映画の中のドイツ人のように、このマリンバアンサンブルに日本公演をさせられないかと真面目に考えたことがある。バリ島のガムランがいかに優れたアンサンブルであるかというのは、もはや言うまでもない。おそらく、世界中に、知られてはいないが人の耳目を驚かせるような、極めて質の高い土着の音楽(楽団・合唱団)というのはたくさんあるのだ。「ファンファーレ・チョカリーア」もそのひとつ。世界は広く豊かだ。