あの時の船長さん

 寝台列車がなくなった後、北海道には船でしか行く気にならない。「旅行は線」、移動の過程も含めて全てが旅行という私にとって、飛行機は余程よく晴れた日に1回くらい乗るのはいいが、移動の実感が持てないつまらない交通機関である。太平洋フェリーは本当に快適。のんびりといい時間が過ごせる、最高の移動手段だ。この船がなくなったら、私は余程の事情がない限りもう北海道には行かないな、多分。
 前回(5年前)、札幌に行った時もそうだったが、今回も、往路・苫小牧港に入港する少し手前の所で、イルカの群れに遭遇した。おそらく、いつも同じようなところにいるのだろう。前回は、単に背びれを見せて泳いでいただけだったが、今回はジャンプする姿なども見られた。イルカの体型というのは本当になめらかな流線型で美しい。ほれぼれとする。
 太平洋フェリーは船を三隻持っている。今回の往路は「きそ」、復路は「きたかみ」だった。「きそ」「いしかり」は名古屋~仙台~苫小牧。「きたかみ」は仙台~苫小牧だけを行ったり来たりしている船だ。その「きたかみ」が一昨年新しくなったのは知っていた。今回は初めての「新きたかみ」である。それも少し楽しみにしていた。
 結論から言えば、私は「きそ」「いしかり」とほとんど同じ構造の旧船の方が好きだ。「新きたかみ」は、おそらく夜出て朝着く短い航路専用ということでそうなったのであろうが、映画や音楽を上演するための劇場がない。海が見える長い廊下にある椅子も、机のないところが多い。食堂が船の中央にあって、その外側にラウンジがあるものだから、食堂からは海が見えにくい。
 「新きたかみ」の売りは、大部屋を廃止して、C寝台というクラスを設置することで、完全個室化をしたということである。私は往路、「きそ」の大部屋に泊まったが、コロナ対策ということなのだろう、一部屋の定員を半分(20人→10人)にして、それぞれのスペースを仕切るためのカーテンが付けられていた。一部屋に2人しか乗っていなかったということもあるが、とてもゆったりしていて快適だった。「新きたかみ」のC寝台は、従来のB寝台と同様なのだが、今の「きそ」の大部屋に比べると窮屈で、ただ寝るためだけのスペースだ。
 ところで、復路、出発間際にいつもどおりの船長アナウンスがあった。船長は「川尻」と名乗った。私は知っている。東日本大震災の時に、仙台港に停泊していた船の船長だった方である。当時、水産高校の教員だった私は、学校に届いていた海難防止協会の情報誌『海と安全』№552の「特集3・11 巨大地震と大津波の教訓を伝える」(2012年3月刊)で、その時の話を読んで知った。
 大津波がどのようなものなのかを実感としては誰も知らない中で、多くの迅速・的確な判断を重ねて船を守ったことに感銘を受けた。「川尻」という名前は記憶に残った。その後、川尻船長の船に乗ったのは、今回で3回目である。
 通常はただの儀式である船長アナウンスは、この日、意外な展開をした。
「私事ではありますが、今日が私にとって最後の航海となります。・・・」
 ほう、3~4年に1度くらいしか太平洋フェリーに乗る機会のない私が、あの船長さんの最終航海に乗り合わせるとは、何という偶然!この日乗っていた百人ほどの乗客でも、あの『海と安全』誌を読んでいた人間はおそらくいないだろう。私は、『海と安全』誌の記事に感銘を受けたことと、退職の慰労・お祝いとを簡単に書いてお手紙とし、下船時に客室乗務員に托した。
 帰宅後、改めてその『海と安全』誌を読み直してみた。手記だと思っていた記事は、インタビュー記事であったが、内容=震災時の的確な判断の積み重ねには改めて感銘を受けた。驚いたのは、川尻船長がまだ53歳(=震災時ではなく今)だということだ。私は船内放送で「最後の航海」と聞いて、定年退職を迎えるのだとばかり思い込んでしまっていた。おそらくは、海上職を外れて本社でもっと高い管理的地位に就くのか、他社から引き抜かれたのか、水先人か何かとして独立するのか、なのであろう。
 ・・・まぁ、それはどうでもいいこと。旅行の最後に、なんだかひどく貴重な思い出をもらったような気分になった