高橋竹山

 8月7日、今月もまたラ・ストラーダに映画を見に行った。今月の演目は「津軽のカマリ」。津軽三味線の巨匠、いや、名人である初代高橋竹山の生涯を描いた作品だ。「カマリ」というのは津軽弁で「匂い」を意味する。竹山が生前、「それを聴けば津軽のカマリが湧き出るような音を出したい」と常々言っていたことによるらしい。
 大西功一監督(兼撮影、製作、編集)による2018年の作品である。初代竹山が亡くなったのは1998年なので、没後20年にして作られた作品だ。このことを事前に知っていた私は、さほど期待をしていなかった。いくら晩年の竹山が世間から高い評価を受け、映像もそれなりに残されていたであろうとは言え、いざまとめて1本の映画に編集しようと思えば、あれこれと不足が生じて、脈絡が欠けたり、場面による撮り方のばらつきが目立つ作品になってしまうのではないかと思ったからである。
 ところが、これはなかなかよくできた作品だった。竹山本人の語りも、まるでこの映画を作るために収録されたかのようなまとまりがあるし、弟子や関係者の証言の取り上げ方も上手、演奏場面もそれなりにまとまった量が収められていて、竹山の音楽に触れたという実感が持てる。以前見た琉球音楽(→その時の感想)やジプシー音楽(→その時の感想)の映画のような、音楽が断片的過ぎるという不満は湧いてこなかった。
 最も印象に残ったのは、1997年12月12日、竹山が人前で演奏した最後の場面だ。場所は、竹山の家の近くの集会所のような所。いわゆる「演奏会」といったようなものではなく、地元のイベントの余興のような位置付けだったようだ。2ヶ月後に亡くなる竹山は、この時87歳。病魔にも冒され、人が三味線の棹を支えてあげなければ弾けないような状態になっていた。技術的にも衰えははっきりしている。しかし、十分に魅力的なのだ。津軽の魂の強さ、とでも言うべきものがストレートに伝わってくるようだった。
 映画を離れて、竹山に関する思い出を少し書いておこう。
 私は、竹山の演奏を実際に聴いたことがある。1982年10月15日のことだ。大学2年であった。この時、竹山は後に2代目竹山となる女性、高橋竹与と共に仙台に来た。会場が当時仙台最大のコンサートホールだった宮城県民会館(現東京エレクトロンホール)で、記憶は定かではないが、ほとんど満席だったと思う。例によって一番安い3階席だったが、チケット代がいくらだったかは憶えていない。
 不思議なことに、三味線の音の記憶はほとんどない(多分、マイクを使っていたからよくないのだ)。それよりも、竹山の語り、あるいは語っている時の竹山の雰囲気に魅了されたことをよく憶えている。これは、演奏家にとってはありがたい評価ではなく、竹山にとっても本意ではないだろうが、私はそこに、確かに「津軽のカマリ」を感じていたのではないか、という気がする。今回映画を見ながら、その時の気持ちが少しよみがえってきた。
 1998年2月5日に竹山が死んだ時、当然のこと、多くの報道がなされた。そんな中で、私が特に印象に残ったのは、2月8日の朝日新聞に掲載された長谷部秀雄氏による「初代高橋竹山を悼む」という記事だった。今も手元にあるので、少し長くなるかも知れないが引用しよう。まず、そこに引かれた竹山の三つの言葉。

「三味線は、耳の学問です。」
「小鳥といっても、どうして、たいへんに魂が深いものですよ。」
「私の一生は、音色の探求、音色の創作です。」

 その上で、長谷部氏は2番目の鳥に関する言葉を解説する。

「仕事がないときは近くの山へ行って、小鳥の声を聞くのをなによりの楽しみとする高橋竹山には、音色で一羽一羽の違いがわかり、オスとメスや親子の間で繰り広げられる喜びや悲しみのドラマが、はっきりと読み取れるのだそうだ。小鳥の心理を感じ取るほどの鋭敏な耳で、自分が演奏する三味線に聴き入り、その音色をさらに深く澄んだものにしようと、たえず研鑽を重ねていく。それが自分の一生だというのである。」

 竹山が鳥の声を聞きに山(と言っても、家の裏のほんの小さな丘)に登る話は、近親者の回想として映画にも登場する。
 このブログの読者であればご存じかと思い、ここまでに書いていなかったが、竹山は目が見えない。幼少時に失明したのである。目の見えない人は、男なら三味線弾き、女なら按摩屋になるのが当時の津軽では定めだったらしい。今と違って、障害者がバカにされた時代である。映画の中でも、竹山は、「学校に入ってもいじめられたから2日で辞めた」と語っている。三味線弾きになったとしても、演奏会があるわけでも、開けるわけでもない。竹山は「門付け」、すなわち、あちこちの家の玄関先で三味線を弾き駄賃をもらう、ほとんど乞食のような生活を強いられた。そんな生活について、長谷部氏は次のように書く。最も印象的な一節だ。

「世間から蔑みの目で見られたボサマ(門付け芸人)時代からの長い苦しみと悲しみを、竹山はいつしか比類なく深い音色の透明な音楽に昇華させていた。戦前の農民や出稼ぎ労働者の暮らしは、いまとは比較にならないほどつらいものだった。そうした中で必死に生きる人々は、自分よりもさらに深い悲しみを味わった人の音楽によって、心を慰められ、癒やされる。」

 その後、世の中が豊かになり、人々が娯楽を求めるようになると、竹山の三味線は「芸術」として脚光を浴びるようになる。1970年代には津軽三味線の一大ブームが湧き起こり、竹山はスターとなった(それが幸せなことであったか、不幸なことであったか、私には分からない)。竹山は、日本国内のみならず、アメリカやヨーロッパでも公演を行い、「日本のローカルな音楽を世界の音楽にした」(長谷部)。
 だが、おそらく竹山は、自分の原点、求め続けていたものの存在を最後まで忘れることがなかった。そんな姿勢が、映画の中の「最後の演奏」に表れているのではないだろうか。それは、コンクールによってデビューし、もてはやされる今の三味線奏者とは決定的に違うものである、と私は思う。