(蛇足)首相退陣

 遅くなってしまったが、9月2日(木)14:15、塩釜保健所から電話があって、「陰性です。今後の行動制限はありません」と言われた。昨日からめでたく出勤。その学校は、今後2週間、午前が出席番号の奇数番、午後が偶数番、それぞれ40分3コマ授業という変則(分散)型となる。ああ面倒くさい。

 さて、菅首相が辞める。私が特別付け加えることなどない。マスコミもしくは有識者が、言うべきことを全て言っている(今朝の河北新報に載った小田嶋隆氏による菅義偉評が簡潔で要点を上手く押さえた好論だった)。蛇足を覚悟で意思表示しておく。
 元々、私には期待なんか全くなかった(→昨年就任時の記事)。それから1年。予想通りにひどかった。散々言われていることだが、彼は「言葉」を持たない。国会でも記者会見でも、常に原稿棒読み。まともな回答なんて全然ないし、原稿を読み飛ばしても気が付かない。人間は言葉なしには思考が出来ない。したがって、「言葉」がないというのは「思考」がないということである。政治哲学というか、国作りの理念というか、そういうものが全く見えない。その点を突かれるのが困るので、記者会見からも、国会からも逃げ回る。
 おそらく、彼にあるのは強い権力欲だけである。もっとも、それはコロナ対策や景気対策に大なたを振るうための権力、善用されるべきいわば「公共の権力」であるわけがない。実際、彼がやっていることを見ていると、例えばコロナ対策がその最たるものだが、国民のためを思ってというよりは、自分の権力を維持するためには一定の支持率を確保することが必要で、そのためにはコロナ対策に力を入れなければならないからやっている、としか見えない。おそらく、彼が固執するのはいわば「私的な権力」である。権力を持つことで利益を手に入れたいか、「立身出世」をいまだに「男子の本懐」と心得、首相の地位にいること自体に単純な喜びを見出しているか、といったところであろう。
 自分は選挙で選ばれたのだから偉いのだ、高い地位にいることこそ疑いもなく善だと考えるのは、気に入った気に入らないというヤクザ、チンピラと同じ精神構造である。そして実際、菅という人がこの間(というのは政治家を志して以後ずっと)やってきたのは、身内びいきと人事権を用いた恫喝まがいのことではなかったか?
 そんな彼の精神構造と行動パターンは、この1週間か10日の自民党総裁選挙を巡るドタバタに嫌というほど露骨に表れてしまった。彼の権力に対する執着の強さ、首相を座を守るためには何でもやるというなりふり構わぬ姿が、醜悪を通り越して惨めであった。いくら自民党員がアホでも、菅にそのまま総裁をやらせるわけにはいかなくなったのは当然であるが、その自民党員(主に議員)も、思慮がなく、哲学を持たない総裁を戴いておく訳にはいかないと思ってそっぽを向いたのではなく、彼では選挙に勝てないと、いわば保身、自己利益のために親分を見切ったわけだから、同じ穴の狢(むじな)である。
 どのタイミングで総裁選挙に立候補するのが一番いいか、もとい、一番得かを考えながら模様眺めをしていた面々が、続々と立候補表明をするかもしれない。誰がなっても、おそらくほとんど変わらない。なぜなら、政治家の質は国民の質を反映している。菅という人は、自ら勝手に総理大臣を名乗っていたのではなく、自民党、もしくは国会で選ばれて首相になったのである。野党のふがいなさを見ていても、単に選挙制度が悪いからこんな人たちが当選してしまう、という問題でないことはよく分かる。そして、こんな議員たちが繰り返し当選し、国を動かす根っこに、日本の若者を教育している自分たちがいると思えば、本当はこうして文句を言っている場合でもない。
 期待などできないことは分かるのだけれども、人が変わることによって出来ることがあるのは確かだ。せめて、森友と学術会議くらいは、ただの「目玉商品」でもいいから、もう少しすっきりと決着を付けてくれないものだろうか?