魯迅生誕140年など

(10月7日付け「学年主任だより№20」より①)
*冒頭は9月30日記事の姉妹編となる。なんだか話が少し違うぞ、というのは、「学年主任だより」は紙面の大きさによる厳しい字数の制約があって、いちいち説明が必要な書き方はできないからである。


 「食」は全ての基本、自給自足が理想、とは考えるものの、土地も時間もないので、できることは限られている。かろうじて、石巻の自宅に1坪(2畳分)ほどの畑を作り、今年はミニトマト4本とキュウリ2本を植えた。つけていた記録によれば、6月22日の初収穫から3ヶ月の間に、ミニトマトが1070個、キュウリが50本採れた。
 一方、実家の畑にも同じものを植えたところ、比較にならないほどもりもりと元気よく茂り、収穫量も桁違いである。キュウリは収穫が追いつかずに計測不能となり、ミニトマトは毎週末200個以上が採れる。1ヶ月で1000個、3ヶ月だと3000個を超える計算になる。しかも、粒が自宅のものの2倍以上の大きさで、味もいい。
 どちらも、ホームセンターで買った1本200円程度の同じような苗である。土がまったく違うのだ。母曰く、「お父さんの遺産や。お父さん、土作り一生懸命やったから・・・(関西弁)」。確かに、父は、生ゴミ酵素で処理したり、鶏糞その他の有機物を入れ、長い時間をかけて土を作った。父が死んで既に10年余り経つが、その後も母が多少の手を加え、土は今でも生きている。
 父も偉かったが、自然の力が偉大なのだ。今植えてあるものを処分したら、私も土作りに取り組んでみようと思っている。とは言え、価値あるものを作るためには、時間とエネルギーが必要であることは、あらゆることに当てはまる普遍的真理だ。私の「土」は、果たしていつ出来上がるだろうか・・・?


裏面:9月20日付け河北新報「持論時論」欄「魯迅生誕140年 結んだ中日の絆未来へ」(駐新潟中国総領事・孫大剛氏筆)を貼り付け。
平居コメント:今でも、中学校3年生で使っている国語の教科書には、魯迅の「故郷」という作品が載っている。おそらく、ほとんどの諸君がそれを読んだことがあるだろう。
 魯迅共産党員ではなかったが、中国革命で活躍した共産党系の人々に大きな影響を与えた。そのため、革命を陰で支えた人物として、現代中国では高く評価されている。
 医学を志し、仙台に留学した魯迅は、ある出来事をきっかけとして、「治さなければならないのは肉体ではなく、中国人の精神だ」と考えるようになり、医師への道を捨てて作家になった。その人生転換がなければ、魯迅の中国革命=現代中国への影響も生まれなかった。だから、現代中国にとって仙台は重要な町である。私もかつて中国で、「仙台から来た」と言って理解されなかった時、「仙台は魯迅先生が医学を学んだ町です」と説明を加えたところ分かってもらえた、という体験を持つ。
 また、魯迅は仙台の医学校で藤野厳九郎という先生から温かい指導を受けたことについて、後年「藤野先生」という作品を書いた(載っている教科書もある)。領土や人権といった問題でぎくしゃくすることの多い現在の日中関係において、そんな日中交流の歴史は貴重である。
 仙台には、魯迅が実際に授業を受けた教室(東北大学)、下宿(復元、米ヶ袋)、各種記念碑類(仙台市博物館など)などが残る。