老大家の音楽

 昨日は、仙台フィルの第349回定期演奏会に行った。2月以来の仙台フィル。私としてはかなり「久しぶり」だ。
 プログラムは、ブラームスのピアノ協奏曲第2番と交響曲第2番。指揮は飯守泰次郎、ピアノは小井土文哉。私は小井土文哉とピアノ協奏曲に引かれて行った。
 小井土文哉氏は、第87回日本音楽コンクール(2018年)の覇者なのだが、私はむしろ、このコンクールに小井土が初めて出場しファイナリストになった第86回のドキュメンタリー番組を見て印象に残っている。見た目も爽やかな好青年で、ピアノの腕も確かとなると、私の熱い嫉妬の対象であること言うまでもない。才能のあまりの不公平は悔しいのだけれど、やはり一度聴きに行ってみたい。その時から思っていた。
 ブラームスの協奏曲第2番は、4楽章、演奏時間50分という大曲である。世の中には、ブゾーニの協奏曲(75分)、ソラブジの化け物のような4つの「ピアノ交響曲」(各曲4時間以上!)のような作品もないわけではないが、それらは例外。一般に受け入れられているとは言い難い、極めて特殊、マニアックな作品である。してみると、このブラームスのピアノ協奏曲第2番は、普通に演奏され、人々から名曲として評価されているピアノ協奏曲の中では「最大」と言える。しかも、旋律が美しく、曲想も変化に富み、まったく人を飽きさせない。ブラームスの作品の中でも特に優れたものの一つだと私は思っている。
 ところが、やはりその巨大さがネックになってか、演奏される機会はさほど多くない。難曲をもって聞こえるプロコフィエフの3番、ラフマニノフの3番あたりといい勝負。私がこの手の音楽を聴くようになって40年以上経つが、多分、ライブで聴くのは2回目ではないか?しかも、前回(1999年11月26日仙台フィル第152回定期 円光寺雅彦指揮、伊藤恵独奏)は、私のこれまでの人生で唯一、遅刻してしまった痛恨の演奏会なのだが、序曲など無しでこの曲から始まったため、第1楽章を聴き逃してしまった。
 録音ではよく聴いた。アバドポリーニベルリンフィルとか、サヴァリッシュ、ゲルバー、N響とか、ヨッフム、ギレリス、ベルリンフィルとか、いずれも大変素晴らしい演奏だ。曲が構造的に完成されすぎているからか、演奏による違いというのがさほどない。数年前には、バーンスタインツィメルマンウィーンフィルのDVDを買った。映像で見ると、なおのこと、こういう曲を作れる、演奏できるということのすごさを感じる。人間の能力というのは偉大なものだな。
 さて、昨日の演奏も非常に立派なものだった。私としては、十分に楽しめたのだが、実は、ピアノ協奏曲以上に交響曲に驚いたのである。
 飯守泰次郎氏は、言わずと知れた老大家である。御年81歳で芸術院会員。長くヨーロッパの歌劇場で仕事をしてきた。しかし、私の飯守評は厳しい。私は、記憶が定かでないのだが、2018年に氏が仙台フィルの常任指揮者になってから、数回聴く機会があっただけで、それ以前はないと思う。記憶が定かでないということは、演奏に接する機会があったとしても、印象に残らなかったということである。実際、仙台フィルに来るようになってからも、残念ながら演奏を聴いて感銘を受けたことはない。
 指揮者は自分では音を出さない演奏家なので、老化による衰えが表れにくい。むしろ、精神的な円熟が高評価を生むことも多い。晩年の朝比奈隆が熱狂的に支持されたのは、体格がよく、枯れて知的な風貌によっていたような気がするが、マタチッチなどは間違いなく年輪の深く刻まれた堂々たる演奏を生み出していた。一方で、いくら自分では音を出さないとは言っても、衰えが音楽に表れていると感じる人も多い。スクロバチェフスキーが90歳で読売日本交響楽団を振ったブルックナーの8番などは、ずいぶん気の毒な演奏だった。おそらく、飯守泰次郎という人も、「まだ」81歳で、過去の名声によって仙台フィルの常任を務めてはいるものの、既に「終わった」人なのではないか。私はそう評価していた。
 この人の指揮というのは、私のようなど素人の目には、オーケストラから遅れているように見えることが多い。指揮者はオーケストラを動かす人なので、通常はオーケストラの動きがわずかに遅れる。山田和樹とか広上淳一とかを見ていると、彼らの動きにオーケストラが敏感に反応する様が実感される。音楽が生き生きと素晴らしいだけでなく、視覚的にも快感なのである。ところが、飯守という人は逆なので、ちぐはぐ感が大きく、こちらの気持ちが音楽に乗りきれない。
 いくら過去に実績があっても、それだけで指揮台に立ち続けられるとは思えない。それでも飯守氏が現役でいられるということは、彼なりの技術があるのだろう。まさかオーケストラに合わせて彼が体を動かしているというわけではあるまい。一度リハーサルを見てみたいなぁ、リハーサルを見ればその秘密が分かるのではあるまいか、と思うが、それは不可能である。
 ところが、昨日の交響曲第2番の演奏は非常によかったのである。違和感を消すため、私が彼の指揮とオーケストラの動きとの関係をできるだけ意識しないように努めていたこともあるかも知れないが、第2番の明るさと、ブラームス的な陰影が、凝縮された塊として伝わってきた。演奏会が始まる前は、演奏時間から言ってもピアノ協奏曲の方が長いのだから、前後を入れ替えて、ピアノ協奏曲で終わる形にしてくれればいいのに、などと考えていたのだが、終わった時にはそんな不満めいたものが消えていた。