日本共産党雑感

 一昨日書いたとおり、私は今回の選挙の野党共闘を、小選挙区制度によって強いられたやむを得ない「野合」だと思っている。立憲民主と共産が共闘を組むに当たっては、特に立民の側にずいぶん抵抗があるという話はよく耳にした。ここで少し、共産党というものについて考えてみよう。
 私はよく共産党員とか、共産党のシンパだと間違われる。「間違い」である。私ほど極端な無党派はいない。現時点において、考え方としては共産党に共鳴するところが多いけれど、それは私がゼロから独自に考えて、結果として共産党と一致する部分が比較的多いというに過ぎない。共産党と一致しない点も多い。自民党との一致点も意外に多かったりする。
 それでも、共産党の体質は嫌いだ。以前、知人に頼まれて党機関紙「赤旗」の日曜版を、半年ほど購読したことがある。これ以上購読を続けたら、共産党のことが決定的に嫌いになる、それは避けたいと思って止めた。私としては共産党のために止めたのである(→参考記事「日本共産党について」)。
 人間の白黒をはっきりさせ、白の人間は徹底的に讃美し、黒の人間は徹底的に批判する。そんな傾向があることに、大きな心理的抵抗を感じた。恥ずかしながら、私は高校の国語科教員であると同時に、中国共産党の研究者(もどき)でもあるが、特に1942年の整風運動以降の中国共産党には同様の傾向がある。おそらく、かつてのソ連共産党でも、さほど変わらないのではないか。
 しかし、まがりなりにも「民主主義を守るための制度が確保されている」「権力を持っていない」という2点によって、日本共産党は当面、中国やソ連共産党のようにはなっていかない(なっていけない)。だから、今以上に大きな力を持たせてもかまわない。
 ソ連や中国の共産党が、個人崇拝とともに極端な中央集権体制を実現させることができたのは、一党独裁だったからである。しかも、民主的なシステムを持たない国においては、国が一度独裁化してしまうと、それが横暴であろうが腐ろうが、政権を交替させることで浄化するということができない。独裁者の死や、暴力革命による国家体制の変更を待つしかないのである。
 しかし、日本は幸いにして、秘密投票が守られており、権力に横暴を感じた時には平和裡に政権を交替させることができる。しかもそのチャンスは、数年に一度ずつ必ずある。それがある以上、有権者の批判を恐れて、個人崇拝的な中央集権は作れない。したがって、今の日本の制度が守られる限り(たとえそれが小選挙区制度のような問題ある制度であったとしても)、日本共産党が中国やソ連(その衛星国家であったかつての東欧諸国を含む)の共産党のようになっていくことはない。
 だとすれば、もっと日本共産党に力を与えても、それが問題を起こすことはなく、むしろ権力の対極にある政党として、政治の健全化に力を発揮するだろう。立民が共闘を組むことにも何ら問題が無い。
 日本共産党だって、私のような極端な環境主義、それに伴う崩壊にも近い経済マイナス成長実現、急速な少子化推進という考え方からすれば、全然考えがかみ合わないのであるが、他の政党よりはかなりまし。共産党との共闘に抵抗を感じる立民関係者やその他の国民は、頭の中にこびりついている「怖い」共産党と、日本共産党の置かれた状況の違いをはっきりさせながら、あまり感情的にではなく考えてみた方がいいと思う。共産党勢力が国会議員の半数にならない限り、共産党は怖くない。
 共産党と立民の共闘は、意見の違いによる「無理」を上回るメリットがあるはずだ。