方言の消滅

 最近、古典の授業で定番『源氏物語』の「小柴垣のもとで」(若紫の巻)を読んでいる。中に、「髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり」という一節がある。小柴垣の隙間から家の中をのぞき見する光源氏が、そこにいる1人の女房を評する場面だ。
 「めやすし」は、わざわざ辞書で引くまでもないような単語だが、分かりきったような言葉でも、辞書を引いてみると意外な発見があったりするので、私自身も念のためと思ってよく辞書は引くし、生徒にもそれを求める。しかし、「めやすし」に意外な意味は無い。「目に安らか」ということで、分かりやすく言えば、「見た目に感じが良い」となる。
 私は、あまり考えることなく、「あんたたち“めくさい”って知ってるでしょ?それの反対だって考えると分かりやすいんじゃないかな?」と説明した。これほど実感しやすい説明はあるまいと思い、少し自画自賛の雰囲気があったかも知れない。「めくさい」とは、宮城の方言(かどうか、本当は知らない。使用範囲未詳)で、「見た目が悪い」「みっともない」の意味である。おそらく「目に臭く感じられる」というのが元々の形であると推察される。視覚と嗅覚の混同があるかのようであるのは問題だが、もしかすると「くさい」というのは、元々、嗅覚に限定されない漠然とした不快感を表す言葉だったのかも知れない。
 それはともかく、生徒の反応はすこぶるよろしくない。生徒の顔に「何言ってんの?このおっさん・・・」という雰囲気がありありと見えるのだ。私は、念のため「あんたたち“めくさい”っていう言葉知ってる?」と尋ねてみた。手を挙げさせてみると、本当にびっくり仰天、全員が「知らない」に手を挙げるではないか。私にしてみれば、「めくさい」は、宮城の方言を代表する言葉である。この言葉を知らなければ、宮城県民とはとても言えない。私はショックを受けた勢いで、もう一つの問いを投げかけてみた。
 「だったら、“おしょすい”知ってる?」。今回もまた、生徒はぽかんとしている。「“おしょすい”知ってる人?」。誰も手を挙げない。「知らない人?」。一斉に手を挙げる。「おしょすい」とは、宮城県で「恥ずかしい」を意味する言葉である。「めくさい」と共に、やはり宮城方言の代表格だ。これらの単語を知らないとなれば、彼らは伝統的な宮城方言を一切知らないと考えねばなるまい。
 確かに、日頃彼らの言葉を聞いていて、方言を耳にすることは少ない。単語のレベルだけではなく、イントネーションにおいてもだ。あまりショックだったので、授業をそっちのけで、彼らがどれくらい宮城方言を知っているのか、手当たり次第に試してみたところ、彼らが使うのはせいぜい文末の「ださ」(例文:「今日休みだったのは“文化の日”だったからださ。」)くらいで、他は一切使うことも、耳にすることもないらしい。
 ラジオ、さらにはテレビが普及してから、言葉の伝播が飛躍的に加速し、言語周圏論(都を中心に方言は同心円状に分布する=言葉は都で生まれ、ゆっくりと地方に波及してゆく)など成り立たなくなっていることは知っていた。それにしても、高校生が宮城の方言をまったく知らないというのは驚きだ。
 関西人は相変わらず関西弁で話していて、方言の衰退なぞ感じることはない。テレビドラマでは、東北弁も九州弁も健在だ。もしかすると、日本の言葉は標準語(?)と関西弁の二種類に集約されてしまい、東北弁や九州弁は、東北や九州の子どもたちが、逆にテレビドラマからそれらを知るという状態になっているのではあるまいか?

 ふるさとの なまり懐かし停車場の 人ごみの中にそを聴きに行く(啄木)

 もはや、このような歌が作られないどころか、理解もされない時代になっているようだ。いくら機能的ではあっても、土地の個性が失われていくのは寂しい。