奈良の諸仏と寺院

 古典の授業の時に、阿呆のひとつ覚えのように「いいものしか古くなれない」「なぜこの作品は古典になることが出来たのか考えよ」と繰り返している私は、古いものに対して並々ならぬ畏敬と愛着とを持っている。
 日本には現在、奈良時代以前に作られた建物が28棟残っているらしい(『日本建築の歴史』65頁)。残念ながらそのリストを見つけられていないし、私自身が作ることも出来ていないのだが、新薬師寺法起寺(ともに奈良時代)あたりを訪ねたことがないのは残念に思っていた。そこで今回は、まず奈良市で新薬師寺に加え、前回子どもたちに見せていない東大寺の転害門(てがいもん=奈良時代)を見せ、翌日、法起寺法輪寺(江戸と昭和)、法隆寺といういわゆる「斑鳩三寺」をじっくり回ることにした。更に、『宮大工と歩く奈良の古寺』(以下、『奈良の古寺』)で、繊細な、後の数寄屋造りに通じる名建築として書かれている十輪院鎌倉時代)、前回、境内を素通りしただけの興福寺鎌倉時代以降)にも時間を割くことにした。
 転害門は、『奈良の古寺』で、「木は成育の方位のままに使え」、すなわち、山で生えていた時に南側に向いていた面は、建物でも南向きになるように使いなさい、という宮大工の口伝に従って作られた建物の代表格とされている。確かに、南側の人目につくところに、節だらけの、見方によっては美しくない部分が来ている。しかし、注意深く他の建物を見ていると、必ずしも南面に節の多い部分が使われているようには見えず、私のような素人には、口伝が守られているのかいないのかよく分からない。それでも、この門の実に質朴な雰囲気と、がっしりした力強さは魅力的だ。
 興福寺では、国宝館に初めて入った。かの有名な阿修羅像や千手観音像を目の当たりにした感動は大きかった。この興福寺国宝館に限らず、新薬師寺にあった十二神将立像にしても、法隆寺の諸仏にしても、数々の仏像には、今までになく心動かされた。その質感といい、表情といい、実によくできている。
 思えば、私はヨーロッパの宗教音楽を聴くことが多い。かつては、某市民合唱団に所属して自分で歌っていたこともある。それでいて、クリスチャンではない。そんな私にとってバッハやブラームスの宗教曲がなぜ魅力的かと言えば、そこにリズムやメロディーによる音楽そのものの楽しさや、人間の豊かな喜怒哀楽がふんだんに含まれているからである。語弊はあるかも知れないが、キリスト教は「材料」に過ぎない。優れた仏像を見た時の感動というのは、それと同じことなのだと気付いた。彫刻家であり評論家であった高村光太郎は、奈良の優れた仏像に「命(La Vie)」を見た(例えば1952年7月の評論「法隆寺金堂釈迦三尊像」全集第5巻所収)。その感覚がとてもよく分かる。
 新薬師寺では、十二神将立像が作られた当時、どのような彩色が施されていたかを復元する様子が描かれたビデオを見た。その中で、ある関係者が語っていた、「これらの仏像は誰が作ったものか分かりません。それでも、これらの仏像を作った人がいたということ、これらの仏像を守ってきた人がいたということは間違いのないことです」という言葉には、深く感じ入った。確かにそうなのだ。そして、仏像が私たちを動かすのは、その優れた造形性だけではなく、そんな積み重ねられた思いがあるからなのだ、と思った。
 2日目、念願かなって斑鳩三寺を回ることが出来た。久しぶりで行った法隆寺も、慌ただしい修学旅行引率の時と違い、じっくりと見ることができてよかった。建築物というよりも工芸品であって、作られてから千何百年、世界で一番古い木造建築、日本で最初の世界遺産などという能書きがなくても、十分に美しいと思う。
 私はいつも思うのだが、檜という木を使って、大きな地震や風雨に耐えて千年以上保つ建物を作った奈良時代の工匠は偉大である。しかし、それだけ長持ちする建物を作ることが、人間の知恵の集積だとすれば、それ以前に数千年以上に渡る仏教建築の歴史(試行錯誤)と記録の方法(文字や図面)が必要だ。ところが、実際にはそんな歴史も記録も多分なかった。ということは、奈良時代の工匠は、試行錯誤をせずに、ほとんど一発でそれらの建物の構造を決定し、木を加工し、配置したということになる。間違いなく、彼らには木(=自然)の声が聞こえていたのだ。現代人と違い、彼らは自然と密着して生活していた。そこに畏怖を感じ、謙虚な気持ちで木に向かった時、どのような木の使い方をして、どのような構造・形態の建物を作れば、木の耐久年数の上限まで保つ建物になるのか、木はそれらを工匠に語ったのだ。私が法隆寺等、奈良時代以前の建物に向かった時に覚える感動は、多くそんな想像に基づいている。
 初めて、「iセンター」に行き、西岡常一という人の大工道具を見ることができた。もともと法隆寺を管理する宮大工の棟梁で、後に薬師寺再建に関わったことで有名になった人物だ。この人の口述による、あるいは他者によるこの人についての本は多い。映画(山崎祐次監督『鬼に訊け』)さえ作られた。宮大工界のスーパースターだ。
 私は、マスコミが持ち上げすぎたところがあるのではないかと少し思っている。今も昔も、日本全国の各地に、名もない、それでいて工匠としての確かな腕を持った人というのはいるのではないか、と思うのだ。
 しかし、一方で、この人には誰にもない「運」があった、それはそれで価値だ、という思いもある。法隆寺宮大工の棟梁の家に生まれ、大工として脂ののりきった時期に、昭和の大修理に携わり、法隆寺という名建築を解体して隅から隅まで知ることが出来た。そして法輪寺三重塔の再建。晩年には、薬師寺伽藍の再建という宮大工冥利に尽きる大仕事を取り仕切った。絶妙なタイミングで、絶妙な場所(家)に生まれたと言える。しかも、優れた能力の持ち主であったために、奈良時代の建築の秘密ともいうべきものについて、私たちは彼を通して多くの知見を得ることが出来た。その西岡氏が使っていた道具の実物を目にした感動は大きかった。