「駅」という場所

 年末、和歌山に行った時、新宮駅で仙台までの自由席特急券を買おうと思ったら、「窓口業務はやっていない。自動券売機で買ってくれ」と言われた。名古屋までの1枚の特急券ならいいが、3列車乗り継ぎの特急券を券売機で買うのは面倒だ、そもそもできない可能性もある、と思って尋ねた時の返事だ。もちろん、実際はもっと丁寧な言葉だったし、駅員さんは親切にも、券売機での購入に立ち会ってくれたのだが、白浜ほどの乗降客はいないものの、紀勢本線内での重要度で言えば№1か№2と思われる南紀の中心・新宮駅で、窓口業務を廃止したというのはショックだった。券売機には通信機能がついていて、結局、その機能を使って窓口と同じように、オペレーターとやり取りをしながら切符を買ったのだが、オペレーターにつながるまでにも時間がかかるし、通信機能付きの券売機は1台しかないし、どうしても不便である。私の後ろに並んでいた人は、やはり同様にオペレーターと通信し、学割切符を買うのに苦労していた。
 そう言えば、私が毎日利用する東北本線塩釜駅でも、昨年の夏頃からだったか、窓口の開いている時間が短くなった。昔は、始発から終電まで、というのが常識だったと思うが、今は7:30~16:30で、途中に1時間半くらいの窓口閉鎖時間が2回入る。駅員は他の駅と掛け持ちで、常駐者はいなくなったのではないか?
 新宮や塩釜のような、「みどりの窓口」がある駅でさえこうなのだ。思えば、最近は駅の窓口に長い行列が出来ているのをよく見る。窓口を少なくし、行列が出来て不便だと感じるなら、スマホを使ってチケットレスにしなさいよ、ということなのだろう。だから、大きな駅では窓口を残しつつも、あえてスムーズには切符を買えないようにしているに違いない。私などは、単純な片道や往復ではない、経路が複雑な切符を買うことが多いので、窓口がないと非常に面倒だ。しかも、JR職員の技能やシステムの問題もあって、発券にむやみに時間がかかる。後ろに行列が出来たら、いらだちが伝わってきて嫌だ。乗車の10分前に、窓口で切符を買うつもりで駅に行くのはとても危険だ。単純に東京を往復するというような人にはよいが、そうでない人にとって駅はどんどん不便になっている。
 思えば、JRの駅はそれ以外の点でもどんどん変質している。
 もう10年か20年も前から、駅の電話番号を知ることは極めて困難だ。一般人には不可能だと言っていいだろう。電話番号を公にすることで、運行情報等で問い合わせが来ることを避けていることは容易に想像がつく。情報はネットで、ということだ。しかし、ネット情報は更新までにかなりの時差があるし、こちらが知りたいことが書いてあるとは限らない。
 塩釜駅では、窓口の開いている時間が短くなったのと相前後して、ゴミ箱が使えなくなった。なぜかいまだにゴミ箱は存在するのだが、厳重に封鎖されている。私にも多少の公共心というものがあって、街を歩いている時に目立つゴミが落ちていたら拾うようにしていたのだが、駅のゴミ箱が封鎖されてから止めた。ゴミを拾っても駅で捨てられると思うから拾うのであって、家まで持ち帰るのはさすがに気が重い。
 次はトイレが使用禁止になり、自治体が駅の隣に公衆トイレを作る、ということになるのではないか?
 今から35年前、1987年に日本国有鉄道が民営化されてJRになった。公的な組織が、民間企業になったわけだから、利潤を最大にするために、様々な工夫をするのは当然だ。そんな中で、駅舎を大規模商業ビルへと転換し、地の利を生かして一人勝ちを収める駅がある一方、乗降客の少ない駅では、「余計なもの」が切り捨てられていく。
 このように資本主義の論理に従ってことが動く場合、変化のしわ寄せは必ず弱い者へ、弱い者へと集中していく。思えば昔、駅はセフティネットとしての役割も担っていた。小さな駅にも駅員さんがいて、利用者を自然に見守っていた。学校帰りの小学生が立ち寄って遊んでいるなどという光景を見たこともある。交番は敷居が高いから、何かの時には駅に聞いてみる、ということもあった。
 それが、無人駅が増え、監視カメラが設置され、窓口が閉じられ、鉄道を利用するためだけの場所になった。駅がセフティネットとしての機能を失えば、それに代わるものを自治体で用意するか、自己責任だと言って突き放すしかない。それらによって生じるコスト(間接的なものも含む)を考えると、社会全体で見た場合、果たして赤字国鉄の民営化は、社会の負担を軽くしたことになっているのだろうか?変わりゆく駅を見ながら、そんなことを考える。