JAZZの魅力(2)

 二つ目は「KING SIZE!」(1958年)。
 演奏しているのは、アンドレ・プレヴィンとレッド・ミッチェル、フランキー・キャップの3人。プレヴィンはドイツ出身のアメリカ人で、言わずと知れた大指揮者。作曲家でもある(バーンスタインと同じだ)。2019年に亡くなったのだが、椅子に座って、おぼつかない様子でNHK交響楽団を指揮する晩年の姿を見たのは、まだ記憶に新しい。ヨタヨタの指揮が悪い、というのではない。むしろ逆で、これだけヨタヨタでありながら、N響があえて首席客演指揮者のポストを与え、彼を招くのがすごい、と思いながら見ていたのだ。全身これ才能の塊、といったような人である。
 このアルバムはとても楽しい。余裕綽々の才能の塊が、クラッシックの制約から解き放たれて、自由に音楽を楽しんでいる風がよく感じられる。
 クラシックは、どうしても楽譜の縛りが厳しい。いくら作曲家が努力しても、楽譜に全てを表現できるわけではなく、必ず解釈の余地というのは存在する。だからこそ、同じ曲を演奏しても、演奏者によって音楽は違うものになるのだが、ジャズは自由度においてまったくその比ではない。冒頭のメロディーとコード進行だけが決まっていて、あとは即興的展開をする。「枯れ葉」などと曲名を言われても、人によって、その時によって、まるで違う曲だ。
 ジャズのこの自由奔放さ、遊び心。おそらく、それが私にとっての「ジャズの魅力 その2」であり、「KING SIZE!」は、その遊び加減において、実にほどよいのである。これは、プレヴィンが大指揮者であると知っているからこそ、かもしれない。生真面目、重厚な音楽を演奏する彼の姿があって、この自由奔放、軽妙洒脱が生きてくる。ただ、そこには間違いなく、私がジャズに求めるものが何かということが表れているだろう。
 ただ、「その1」と「その2」を比べた場合、より一層大切なのは「その1」である。なぜなら、「その2」は、別にジャズでなくてもよいからだ。ねっとりと濃厚な情念あふれるジャズを聴きたい。やっぱり、それは夜とウイスキーがよく似合う。
 さて、話をビル・エバンスに戻そう。なぜ私がこの人に魅力を感じないかが分かろうというものだ。あまりにも正直、素直でお行儀が良いのだ。いくら音楽が美しいとは言っても、そこには鬱屈した心理や、自由な遊び心、正統をあえて離れる斜に構えた態度、そういうものがない。更に言えば、人間くささのようなものがないのだ。そのような音楽は、「ジャズ」としてはつまらない、のではなく、音楽としてつまらないのである。