NHKのファインプレー・・・マタチッチのブル8

 11月来、ちびちびと書き続けてきた論文を、先週の半ばに提出した。査読で何を言われるかは知らないが、とりあえず爽快感がある。3年生が最後の考査期間に入り、授業がないということも手伝って、なんとなく気分的にのんびりだ。
 というわけで、その後、わずか数日に過ぎないが、あれこれと雑書を読んだり、音楽を聴いたりしている。昨日は、母の生活支援から帰ってきてから、ふと思い立って、1984年3月7日、NHK交響楽団第925回定期演奏会でロブロ・フォン・マタチッチがブルックナー交響曲第8番を指揮した録画を見た。
 これは、かなり前からCDを持っている演奏で、私はN響の歴史の中で最高の名演ではないかと思っている。それが、2年ほど前だったか、「N響 伝説の名演奏」という番組で再放送された。私は録画しておいて、既に何回か見ている。まったく飽きない。(再放送される前にその一部を見た時の感想→こちら
 昨日、この録画の特徴に初めて気付いた。驚いたことに、第1楽章と第3楽章は、カメラが常にマタチッチを捕らえている。3階席あたりからオーケストラ全体を映し、マタチッチの表情が見えない瞬間はあるのだが、楽器奏者だけが映っていて、マタチッチが画面に見えていない瞬間は存在しないのである。第2楽章こそ、やや奏者だけという場面があり、楽章の終わる瞬間にマタチッチが見えていないのは残念だが、第4楽章は奏者だけという場面があるものの、ごくごくわずかな時間である。つまり、80分近い演奏時間の90%、いや95%以上の時間、カメラはマタチッチを捕らえていて、しかもその大半は彼の上半身のアップなのだ。これはすごい。N響の演奏会録画と言うよりも、マタチッチを撮るための録画だった、ということである。
 これはNHKの超ファインプレーである。奏者の映像なんて、誰が何という曲を指揮していようと、ほとんど変わらない。せいぜい、「トゥランガリ交響曲」のオンドマルトノや、マーラー交響曲第6番におけるハンマーのような、普段お目にかかることのできない珍しい楽器(道具)が登場する時には見せて欲しいな、と思うくらいのもので、そうでなければ、ひたすら指揮者を映すというのは見識だ(バーンスタインが「天地創造」を振った時の映像は逆で、私は文句を書いたことがある→こちら)。
 指揮者によっては、逆にそれが変化のない退屈な映像になる場合もあるのかも知れない。だが、マタチッチの指揮する姿は非常に魅力的だ。当時85歳。亡くなる10ヶ月前に当たる。衰えている感じはしないが、何しろご高齢なので、体の動きは非常に小さい。それでも、椅子に座ることもなく、楽譜も開かない(椅子は置いていない。譜面台の上に楽譜は載っている)。最小限の動作で最大限の効果。加えて、抑制的でありながら豊かな表情!女子高生なら「このおじいちゃん、可愛いっ!!」とでも言って喜びそうだ。なぜこの指揮で大編成のオーケストラを動かし、ブルックナーが演奏できるのか分からないと同時に、音楽が雄大無比で白熱したものになることに納得できる、という実に不思議な感覚だ。マタチッチという人の人間的なスケールの大きさに楽員が反応し、そのままあのブルックナーの音楽になった、ということなのだろう。
 音楽を聴くのもいいが、こんな人が誰かと楽しそうに話している横に座って酒でも呑んだら、さぞかし楽しくいい気分だろうな、と思う。