小林秀雄について(1)

 最近、新聞の書評欄で見付けて浜崎洋介小林秀雄の『人生』論』(NHK出版新書)という本を読んだ。実は、私にとって小林秀雄は中国近代史、明代思想史(陽明学)、高村光太郎音楽史あたりに続く「第5専門」と言ってよい分野なのである。目に止まった文献についてはできるだけ入手し、目を通してきた。
 現在の勤務先には、博士課程で小林秀雄を研究していたという若い女性教諭がいて、時々小林秀雄についての話をする。もちろん、彼女にとって小林秀雄は「第1専門」なわけだから、「第5専門」などと偉そうに言いつつ、「愛好者」に毛が生えた程度という私が、対等に議論など出来るわけもないのだが、その分野について専門家からの刺激を受けられるのは楽しい。
 前掲書について多少の感想を述べ合う中で、今まで小林秀雄についてはこのブログ内でさえほとんど書いたことがなかったことに思い当たった。そこで、少しだけ小林秀雄についての私の思い出や考えを整理しておくことにする。
 とは言え、この2週間ほど、そんなことを考えつつ、我が家にある小林秀雄関係の書物を読み直し始めたのだが、しょせん通勤の電車の中以外に時間はほとんど取れない。そんな私にとって、我が家にある文献だけでもほとんど「無限」と言ってよいほどの量である。それら全てに目を通し、索引を作ったりノートに抜き書きをするといった基礎的作業はできそうにない。したがって、小林秀雄について何かを書いたとしても、要点だけ、見解「序論」といった程度のものにしかならないことはだいたい見えている。
 ま、ここに書いている文章など、どこかに対して責任を負うようなものでもなく、私自身の自己満足、もしくはメモや下書きに過ぎないので、そんな断りを入れる必要もないだろう。何回かに渡るだろうが、一気に書けるとは思えないので、何週間も間が空いたりするかも知れない。さてさて・・・


 私が高校時代、ということは、約40年前、小林秀雄という作家は大学入試のスターだった。統計的に確かめたことはないが、最もよく出題される作家だと言われていた。国語の教科書にも作品が載っていた。私が憶えているのは、『考えるヒント』の中の「お月見」と「天橋立」だ。小林秀雄的な晦渋さのない佳品である。
 事前に小林秀雄の文章をたくさん読んだからと言って、大学入試に有利になるとは全く思えない。私が小林の文章を読むようになったのは別のきっかけである。高校3年生の時の日本史の授業で、江戸時代の文化について勉強した時、先生が「小林秀雄の『本居宣長』という本を読むと、本居宣長が史上最も優れた学者であると思われてくる」ということを言った。
 漠然とながら、文学部に進み、将来は研究者になりたいと思っていた私は、先生の言った「史上最も優れた学者」が気になった。「史上最も優れた学者」とはどんな人なのだろう?
 兵庫県の片田舎の高校生であった私は、年に2回くらい、親に連れられて大阪府池田市の親戚を訪ねる機会があった。親戚宅にいても退屈なので、挨拶だけ済ませると、私は一人阪急電車に乗って梅田に出た。大きな書店で本を眺めるのが楽しかったのだ。
 新潮社から出ていた『本居宣長』の単行本は、4000円だった。ごく普通の高校生だった私には手が出ない。ところが、ある日、阪急百貨店地下の古本屋街で、私はそれを見付けた。忘れもしない3000円。ポケットの中にあったお金と同じである。高価ではあるが、買えなくはない値段だった。迷いながら古本屋街を端から端まで何度か行ったり来たりしたあげく、私はその本を買った。正に「清水の舞台から飛び降りる」ような思いだった。これは、高校卒業までに私が買った最も、そして圧倒的に高価な本である。もちろん、今も手元にある。(続く)