小林秀雄について(2)

 『本居宣長』は、たいへん立派な作りの重い本だ。箱から取り出すと、手触りがよく、目の粗い濃紺の木綿の布に金文字でタイトルと著者名が書かれている。副題が付いていないことで、なお一層風格が感じられる。表紙を開くと、見返しに奥村土牛の手になる山桜の絵が印刷されている。この絵がまたすばらしい。この絵だけを何分見ていても飽きないほどだ。
 高校3年の秋、私は、家人が寝静まった11時過ぎから、毎日30分間、コーヒーを片手にこの本を開いた。なんだかとても高尚な世界の住人になったような幸福感があったが、残念ながら、内容についてはまるで歯が立たなかった。何より、おびただしく引用されている宣長賀茂真淵荻生徂徠、契沖といった人々の文章を理解することが、著しく困難だったのだ。それらを理解しようと努力すると、そのことにばかり気を取られて、今度は小林がそれらによって言いたいことに意識を向けられない。
 そのため、私が感銘を受けたのは、内容よりもむしろ、小林秀雄という著者の頭の中には、それら江戸時代の学者の文章がことごとく入っているであろう、学問をするということはなんという激しい行為であろうか、ということであった。
 言うまでもなく、この感想は的外れである。当時の私の読書世界が狭く、低レベルだったために、それらが驚くべきことに見えただけであって、世の中の様々な研究書や評伝の類いは、ことごとくそのような原書の読み込みの上に成り立っている。たまたまきっかけがあったために小林秀雄であったが、他の人の本であっても、私は同様の感慨を抱いたはずである。
 しかし、偶然とか縁というものを「下らない」と言っても仕方がない。その時確かに、小林秀雄は私の中に特別な存在になった。大学受験の直前、私は『本居宣長』に挫折し、ついにそれを放り出してしまうのであるが、「無常といふこと」「モオツアルト」といった小品をぽつぽつと読むようになった。しかし、それは『本居宣長』をきっかけに、小林秀雄に興味を持ったからと言うよりは、当時有名だったそれらの作品くらい目を通しておかなければ恥ずかしい、という意識によってだったと思う。『本居宣長』に比べればはるかに分かりやすいと思われたそれらの作品も、当時の私にとっては手強く、必ずしも理解できたとは言えない。少なくとも、読んで「感銘を受ける」というには至らなかった。
 私が小林秀雄にある種の熱狂を感じるようになったのは、彼と中原中也との関係を知り、中原中也の作品と小林秀雄の作品を重ね合わせながら読むようになった時である。最初の衝撃は「Xへの手紙」の次の一節によってもたらされた(現仮名に改)。

 

「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとしていた俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。」

 
 よく知られた話、小林秀雄中原中也の愛人、長谷川泰子を奪って同棲生活を始め、泰子の頭の病気もあって2年半で挫折、関西に逃亡して約1年の放浪生活を送る。小林、中原、長谷川の異常な三角関係と、そこに渦巻くどろどろした情念。私自身が決して同様の破天荒な生活体験を持っていたわけではなかったけれども、20歳前後に見合った多少は激しい感情生活をし、友人達とも多くのトラブルを起こし、今どきの行儀のいい若者たちに比べればデタラメな生活をしていた私は、自分自身の生活体験を通して、上の引用とまったく同じ感慨を持つに至っていたのだ。自分自身が生活の中からつかみ取った見解だけが本物であって、書物によって得られた表面的な知識などにたいした価値はない。この一文に出会った後、畏敬の対象であり、また「読まねばならぬ」教養としての小林秀雄が、自分にとって非常に切実な存在になった。同時に、小林秀雄の書いた言葉が、一部とは言え、心底理解できるものとして自分の中に流れ込んできたのである。私は夢中になって小林秀雄を読んだ。(つづく)